古里だより

古里だより 皐月(一)


「父 井上靖と私」

2016/5/8更新

このたび、井上靖長女・浦城いくよさんが著書「父 井上靖と私」を出版されました。
東京、横浜ほか、静岡県内の書店に並び、文学館でも5月より販売を始めました。


著書名:「父 井上靖と私」
著 者:浦城いくよ(井上靖長女)
発 行:2016年4月
仕 様:四六判並製、278ページ
価 格:1,500円+税
出版社:ユーフォーブックス
内 容:家族から見た父・井上靖の姿、旅の思い出、
「氷壁」「天平の甍」「孔子」作品にまつわる話など、読みやすい文体で書かれています。


「西岡屋」のモデル・西村屋


当館編集・発行の井上靖「中国行軍日記」も好評販売中です。
作家・井上靖の人柄がわかる一冊、ぜひ手にとってみてください。

古里だより 卯月(三)


瓊花(けいか)まつりと生誕記念日

2016/4/23更新

「天平の甍」鑑真ゆかりの瓊花(けいか)が満開となりました。
例年よりも早い開花となりましたので、お花をご覧になりたい方は4月中がおすすめです。
新緑の中、清々しい風を感じに、遊びにいらしてください。

○瓊花(けいか)まつり
4/29(金・祝)~5/6(金)
期間中の土日祝日は、13時より小説「天平の甍」と瓊花(けいか)について、お話いたします。
文学館前庭にてお集まりください。参加無料です。


○井上靖109回目の生誕記念日
毎年、生誕記念日の5/6(金)は入館料無料となります。
先着100名、ガラポンに参加いただけます。


「西岡屋」のモデル・西村屋


【瓊花(けいか)】
鑑真ゆかりの中国揚州市の市花で、日本では唐招提寺や鑑真上陸の佐賀県立森林公園など、ゆかりの地だけに植栽されている珍しい花です。例年、見頃は4月の下旬から5月初旬。2013年、鑑真和上遷化1250年を記念して植樹しました。


古里だより 卯月(二)


子どもたちと新たな「出発」

2016/4/23更新

井上靖の作品が教科書へ掲載されたことをきっかけに、小学校へ出張授業にお邪魔しました。
4月12日(火)三島市立坂小学校6年生(元三島南小校長の小澤先生とともに)
4月15日(金)伊豆市立天城小学校6年生

学校図書の教科書『「国語」6年 上』の巻頭を飾る詩「出発」。
昨春、井上作品が10年ぶりに教科書に登場しました。

まずは目を瞑って、どんな場面か想像しながら、詩の音読を聞きます。
次に、全員でゆっくり読みます。
「繰り返し使われていることばは何だろう?」
「どの行が好きかな?」
小澤先生が優しく語りかけます。

後半は、当館スタッフによる、作者の井上靖がどんな人か紹介しながらのクイズ大会の予定でしたが、子どもたちがすぐ正解してしまったので、逆クイズ大会になりました。


「西岡屋」のモデル・西村屋


小学校最後の一年のはじまりの「出発」。
それぞれがスタートラインに立つ姿を思い浮かべながら、
最後に全員で音読をしました。


この春、学校図書の中学2年生の国語の教科書に、「孔子」と「利休の死」の一部が掲載されました。
文学館は、未来を担う子どもたちと、文学の楽しみや、地域学習の時間を共有したいと考え、今後も出張授業や出前講座を続けていきたいと思います。


古里だより 卯月(一)


しろばんば時代の伊豆湯ヶ島

2016/4/9更新

100年前へタイムスリップ!「しろばんば時代の伊豆湯ヶ島~川端康成・梶井基次郎・井上靖」展がはじまりました。

本展では、川端が土地の人たちと楽しんだ碁石、梶井が湯川屋で使用した机、小学校時代の井上靖の記録(賞状授名簿)、大正・昭和初期の下駄、柳行李、徳利、お猪口などを展示しています。


「西岡屋」のモデル・西村屋


100年前の写真が館内を彩り、しろばんばの舞う文学館。
4月下旬には『天平の甍』鑑真ゆかりのケイカの花も咲き始めます。


「西岡屋」のモデル・西村屋
大正から昭和初期の湯ヶ島 (足立敏啓 所蔵)

「あなたも湯ヶ島文士村の村民になりませんか?」
湯ヶ島文士村パスポートは誰でも参加できます。館内のスタンプを集めて、旅に持っていきたい一冊を書いてみましょう!


古里だより 弥生(二)


中国行軍日記

2016/3/19更新

当館にて開催中の「井上靖と戦争、ふるさと、家族」展の関連書籍「中国行軍日記」が完成しました。

井上靖は1937(昭和12)年8月に応召、10月より二等兵(輜重兵)として中国・北支の地を行軍しました。当時30歳。11月に脚気と診断され、野戦病院に入院、翌年に内地送還されました。

本書には、当時の写真と、昨秋に井上靖の行軍の足跡を訪ねた中国調査旅行の写真をあわせて収録しました。
日記、手紙、行軍体験を作品化した小説がまとまって単行本になるのは初めてのことです。


著 書 名 :井上靖「中国行軍日記」
編集・発行 :井上靖文学館
刊 行 日 :2016年3月18日(金)
仕   様 :四六判、144ページ
価   格 :1000円+税
デザイン  :木村美穂(きむら工房)

「西岡屋」のモデル・西村屋


内 容:
1・「中国行軍日記」
召集令状の届いた1937(昭和12)年8月より内地送還された3月までの記録
2・戦地からの手紙「軍事郵便」
召集令状を知らせる父からの手紙1通、北支から両親へ宛てた手紙5通(初翻刻)
3・小説『異国の星』より「あの夜の兵士へ」「富士を詠える兵士」
「井上靖全集」未収録のため現在手に取るのが難しい作品をおさめました
4・井上靖次女・黒田佳子氏によるエッセイ「80年前の時を訪ねて」


「井上靖と戦争、ふるさと、家族」展は3月29日(火)まで開催いたします。
「中国行軍日記」は会期終了後も販売し、県内の一部書店でも取り扱われます。
詳しくは井上靖文学館(電話:055-986-1771)までお問い合わせください。


古里だより 弥生(一)


真田軍記

2016/3/5更新

「幸村は杢と角兵衛という日本一の百姓を知人に持って倖せだったと思う」


NHK大河ドラマ「真田丸」をもっと楽しみたい方へ、井上靖の「真田軍記」はいかがでしょうか。


「西岡屋」のモデル・西村屋
『真田軍記』 1955(昭和30)年8月より11月まで『小説新潮』へ連載。
井上48歳。
真田幸村や森蘭丸などを描いた短編集。

角川文庫「真田軍記」は当館にてお求めいただけます。


古里だより 如月(三)


春近し、3月の催し

2016/2/20更新

「井上靖と戦争、家族、ふるさと」展の最後の講座「父の中国行軍日記」を開催いたします。
2015年11月、井上靖次女の黒田佳子さんは、井上が行軍した中国の地をその目におさめました。北京から旧道を南下し、保定、石家荘、元氏まで…。
中国調査旅行の話から、井上靖が語った言葉まで、たっぷりお話していただきます。

【文学館講座「父の中国行軍日記」】
と き  3月13日(日)13時~14時・質問を含め14時30分終了予定です。
ところ  井上靖文学館2階
講 師  黒田 佳子さん(詩人・井上靖次女)
定 員  25名  ◆事前にご予約ください
参 加  500円(入館料をふくむ)

「西岡屋」のモデル・西村屋
詩「落日」の舞台をたずねて・中国・保定郊外の麦畑にて

【ご予約・お問合せ】
井上靖文学館:電話055-986-1771 (毎週水曜は休館日です)


古里だより 如月(二)


新しい本棚ができました!

2016/2/20更新

館内の映像コーナーに新たな本が仲間入りしました。
「揺れる耳飾り」「凍れる樹」「春の嵐」「額田女王」「孔子」など、初版本を含む単行本、文庫本、関連書籍など100冊を自由に閲覧することができます。

「西岡屋」のモデル・西村屋

新しい本棚は、沼津の「英文堂書店」、東京の「古書 大雄峰」の寄贈により実現しました。
味わい深い装丁の初版本を手に取ってみてください。

「西岡屋」のモデル・西村屋


古里だより 如月(一)


舞台「猟銃」

2016/2/6更新

2011年の初演から5年。
舞台「猟銃」が4月より再演されることになりました。

舞台「猟銃」
公演日程:2016年4月2日 (土) ~2016年4月24日 (日)(以降、全国各地)
会場:パルコ劇場ほか
原作:井上靖『猟銃』
演出:フランソワ・ジラール
出演:中谷美紀、ロドリーグ・プロトー
http://www.parco-play.com/web/

『猟銃』
1949(昭和24)年10月『文学界』へ発表。井上靖42歳。
妻、愛人、その娘という三人の女性の手紙によって浮き彫りになる一人の男の姿。十三年に渡る不倫と、人間の業を描く。
「西岡屋」のモデル・西村屋

初版本、1950(昭和25)年3月、文藝春秋新社、装幀・猪熊弦一郎
「猟銃」「闘牛」「通夜の客」を収録

「猟銃」は、毎日新聞の記者時代に執筆し、佐藤春夫や大佛次郎らの手を経て
「文学界」へ掲載された芥川賞候補作です。同時期に書いた「闘牛」により第22回芥川賞を受賞しました。

「西岡屋」のモデル・西村屋

新潮文庫「猟銃・闘牛」は当館にて好評販売中です。


古里だより 睦月(三)


あすなろ忌~冬の湯ヶ島

2016/1/30更新

井上靖の命日1月29日に合わせて、毎年湯ヶ島で行われる「あすなろ忌」。

今年は、全国的に寒波の到来した1月24日(日)に開催されました。

まずは、熊野山共同墓地にて墓参。
井上家をはじめ、関係者、井上作品のファンの方々、地元の方々など、井上靖とふみ夫人のお墓で手を合わせました。

「西岡屋」のモデル・西村屋

続いて、井上靖作品読書感想文コンクールの表彰・発表です。
夏休みに読んだ「しろばんば」「あすなろ物語」など、子どもたちの感性が光ります。
「西岡屋」のモデル・西村屋

お昼休憩の時間には、「しろばんば」の散策や、旧湯ヶ島小学校井上靖記念室の見学など、多くの参加者が文学散歩を楽しみました。
午後は、劇団しろばんばによる公演「しろばんば~家族~」。今年も天城会館は満席の盛況ぶりでした。

「西岡屋」のモデル・西村屋

「西岡屋」のモデル・西村屋

「西岡屋」のモデル・西村屋


井上靖が1991(平成3)年1月29日に亡くなってから25年になります。
2015年には10年ぶりに教科書へ井上作品が掲載されました。学校図書の「国語6年生・上」の巻頭を飾る詩「出発」です。
子どもたちはかけがえのない「出発」を経験することでしょう。

古里だより 睦月(二)


中国行軍の地をめぐる旅

2016/1/21更新

井上靖は1937(昭和12)年9月より11月まで、二等兵(輜重兵)として中国北支の地を行軍しました。
その時の記録を毎日新聞社の社員手帳に日記として綴りましたが、生前公開されることはありませんでした。

その後、井上ふみ夫人の一周忌を経て、遺族によって公開された「中国行軍日記」は、雑誌『新潮』へ掲載され、「戦場で書いた率直な想い」は大きな反響を呼びました。
今回の取材旅行は、現在開催中の「井上靖と戦争・家族・ふるさと」展に合わせて企画されたものです。
参加者は井上靖次女の黒田佳子さんら六名。
旅行をお願いしたのは、旅行会社遊路トラベル。代表の志賀氏は、井上靖が初めて敦煌を訪れた時に案内をした方です。
中国側のガイド陳静さん、ドライバー侯立軍さんとともに三泊四日の旅が始まります。

<1日目>
11月9日(月)北京~涿州)
羽田空港~北京空港~旧豊台駅~盧溝橋~瑠璃河(旧橋)

「西岡屋」のモデル・西村屋
行軍が始まった豊台駅
「西岡屋」のモデル・西村屋
盧溝橋

【行軍日記より抜粋】1937(昭和12)年10月1日
朝4時豊台着。
10月7日 四時起床、出発準備。午前九時、保定に向つて行進。ロ溝橋12時。

<2日目>
11月10日(火)涿州~石家荘
永済橋~城壁~平家営~保定中学~麦畑~方順橋~定州城壁


「西岡屋」のモデル・西村屋
詩「老兵」の舞台で黒田さん朗読

【行軍日記より抜粋】1937(昭和12)年10月13日
今日は九時方順橋に向つて進軍。
銃の発條を失ひおどろく。病馬と共に遅れた溝口班長を向ひに行つた本部の大鳥君が拾ふ。大助り。
*詩「老兵」や小説「異国の星」など、繰り返し書かれる出来事。

<3日目>
11月11日(水)石家荘~元氏~石家荘
正定~五里舗村、綿畑~正定駅~コダ河~石家荘駅~元氏駅
「西岡屋」のモデル・西村屋
旧元氏駅 詩「別れ」の舞台

【行軍日記より抜粋】1937(昭和12)年11月19日
山田軍医、看ゴ長が入院した方がよかろうと立ち所に入院決定。
駅でみなと別れる。ひどいぬかるみ路―これが何十里つづくと思ふと、
明日からに行軍の辛さが思ひやられてみんなにすまない気になる。
七時乗車。戦傷患者をも含んだ前線からの歩兵部隊の中にはさまつてのる。無蓋貨車。

*詩「別れ」や小説「異国の星」など、幾度も書かれたエピソード。

ガイドの陳さんが町の人たちに聞きながら探してくださったお蔭で、当時の場所を撮影することができました。
今回の調査旅行について、3月発行の『井上靖 中国行軍日記』に詳しく収録する予定です。

古里だより 睦月(一)


新年のご挨拶

2016/1/9更新

本年もよろしくお願い申しあげます。

「井上靖と戦争・家族・ふるさと」展は、行軍日記の展示ページの変更、
また当時の軍服の展示を追加しました。
1/24(日)には、伊豆市湯ヶ島にて井上靖追悼「あすなろ忌」が開催されます。


「西岡屋」のモデル・西村屋
暖冬の影響で早めの開花となった文学館の椿

古里だより 師走(二)


あすなろ忌

2015/12/14更新

井上靖追悼「あすなろ忌」の知らせが届きました。
毎年、井上靖の命日の1月29日の近くの週末、ふるさとの天城にて行われています。
皆さま、暖かい服装でお越しください。

井上靖追悼「あすなろ忌」
2016(平成28)年1月24日(日)10時~15時30分
10時~ 墓参:熊野山墓地 :天城会館へ9時30分集合
11時~ 井上靖作品読書感想文・感想画の発表・表彰式:天城会館
12時~ 休憩
13時~ 開演:劇団しろばんば「家族」:開場12時30分:天城会館
*入場無料です

「西岡屋」のモデル・西村屋
2015年のあすなろ忌の様子・劇団しろばんば「幼き日」

共 催:伊豆市教育委員会/井上靖ふるさと会/劇団しろばんば
後 援:伊豆市/伊豆市文化協会/ふるさと 井上靖文学館/
一般財団法人 井上靖記念文化財団/静岡新聞社・静岡放送/伊豆日日新聞
【問い合わせ】伊豆市教育委員会社会教育課(電話0558-83-5476)

古里だより 師走(一)
『氷壁』の舞台・上高地を歩く

2015/12/11更新

井上靖の代表作のひとつ『氷壁』は、ナイロンザイル切断事件をもとに書かれた長編小説です。
爽やかな風を感じに、秋の上高地・『氷壁』の舞台を訪ねました。

『氷壁』
1956(昭和31)年1月~翌年8月まで『朝日新聞』に連載。49歳。
切れるはずのないザイルが切れ、奥穂高で墜死した小坂。小坂と同行し、事故の真意をつきとめようとする魚津は、自殺説をはじめとする多くの臆測と戦うこととなります。
厳しい自然と都会の雑踏を照応させつつ、人間を「信じる」ことを説いた代表作。

「ナイロンザイル切断事件」
1955(昭和30)年1月2日、「岩稜会(がんりょうかい)」の石原國利、澤田栄介、若山五朗が前穂高を登攀。当時、麻のザイルより強いとされたナイロンザイルを使用していました。石原と若山が先頭を交代した直後にナイロンザイルが切れ、若山は墜落、亡くなります。
ザイルメーカー・東京製綱は、大阪大学教授の指導のもと公開実験を行った結果、ザイルは切れず、事故との〝矛盾〟が生じます。しかし、その後も岩稜会は「ナイロンザイルが鋭角の岩角に弱い」ことを訴え続けます。墜落の原因がザイル切断によるものと認められるまでの約二十年間に二十人以上の命が失われました。

台風の近づく9月8日(火)、早朝5時、沢渡(さわんど)に到着。気温15度。
「二人はここでザックから弁当を取り出すと、朝食とも昼食ともつかない食事をとった。この店は、乾物も果物も駄菓子も、荒物も、雑貨もごちゃごちゃと並んでいる、よく田舎に見受けられるよろず屋であるが、木炭ストーブの傍には粗末な卓と腰掛けが置かれてあって、飲食店といった格好でもある。実際にうどんとか蕎麦がきとかは、頼めばすぐ作ってくれる。」

「西岡屋」のモデル・西村屋
「西岡屋」のモデル・西村屋、休業中のようです

沢渡から上高地バスターミナルへシャトルバスで約30分。6時10分の始発に乗り、上高地バスターミナルへ。まずは明神池を目指して歩きます。
7時40分、明神池に着。霧のある明神池は幻想的な雰囲気でした。神社の行事で使われる船を見ながら湖畔へ。

「明神の少し手前の小さい池のところまで来た時、魚津は思わず立ち停まった。何百という夥しい蛙が池の周辺に群がって、鳴き立てていた。
「まあ、たくさんの蛙」
かおるもまた足を停めた。」


明神池
明神池

小休憩の後、梓川に沿って歩きました。

「梓川ですよ」
魚津は梓川の流れが初めてくるまの右手の方へ姿を現わして来た時、かおるに教えてやった。
「まあ、日本で一番美しい川ですのね」
「日本で一番美しいかどうかは知りませんが、とにかくきれいなことはきれいですよ」
魚津が言うと、
「兄は日本で一番美しい川だと言っておりましたわ。小さい時から、何回も兄にそう教育されて来ましたので、わたし、いつかそう思い込んでしまいましたのね」


梓川
梓川

9時35分、「氷壁の宿 徳澤園」に到着しました。
軽く昼食をとり、荷物を置いて休憩。

徳澤園
徳澤園

小雨の中、ナイロンザイル切断によって亡くなった若山五朗さんのケルンに手をあわせました。

ケルン
ケルン

雨脚が強くなってきたので、この日は早めに休息を取りました。徳澤園のお風呂で疲れを癒し、おいしい夕食に舌鼓。
食後は徳澤園の社長・上條敏昭さんとお話をしました。
「ラウンジに飾ってある原稿は、まず原稿用紙を誉めてくださったことが印象深いですね。徳澤園は「氷壁の宿」ですが、昔は「かおるの待つ宿」だったんですよ。」
「ケルンは道標という意味合いもあると思っています。」

沢渡、明神池、「美那子に見せたいと思った」梓川、氷壁の宿 徳澤園、そして若山さんのケルン。『氷壁』の舞台を歩いた一泊二日の旅でした。

古里だより 霜月(三)
冬きたる、12月の催し

2015/11/26更新

「井上靖と戦争、家族、ふるさと」展の関連講座「芹沢光治良と井上靖の戦争」を開催いたします。
旧制沼津中学(現・沼津東高校)出身で、沼津を舞台にした小説を発表した芹沢光治良と井上靖。井上靖は1937(昭和12)年、二等兵として召集され、北支の地を行軍しました。同じころ、芹沢は改造社の特派員として中国へ渡っています。二人の戦争体験は、その後の作品にどのような影響を与えたのでしょうか。

【文学展講座「芹沢光治良と井上靖の戦争」】
と き  12月6日(日)13時~14時 質問時間を含め14時30分終了予定です。
ところ  井上靖文学館2階
講 師  勝呂 奏さん(桜美林大学教授)
定 員  25名  ◆事前にご予約ください
参 加  500円(入館料をふくむ)

【ご予約・お問合せ】
井上靖文学館:電話055-986-1771 (毎週水曜は休館日です)

古里だより 霜月(二)
おろしや国酔夢譚の世界

2015/11/15更新

「いまこの国の土を踏んでみると、それは一場の夢物語でしかなかった。」 小説『おろしや国酔夢譚』より 三重県鈴鹿市の大黒屋光太夫記念館にて、特別展「『おろしや国酔夢譚』の世界」が開催中です。江戸時代、伊勢白子から江戸へ向かう途中で遭難した大黒屋光太夫たちは、ロシアへ漂流。長年に渡る苦労の末、日本へたどり着きました。

1966(昭和41)年、井上靖は、光太夫たちの漂流を小説『おろしや国酔夢譚』として発表しました。この作品は第一回日本文学大賞を受賞。映画化されるなど、大黒屋光太夫を世に知らしめるきっかけとなりました。

特別展では、ものがたりの世界とともに、本作の執筆背景などが紹介されます。
近くには光太夫の供養碑や文学碑もありますので、記念館見学とあわせて、『おろしや国酔夢譚』の世界を堪能してみてはいかがでしょうか。

鑑真ゆかりの瓊花(けいか)
ズナメンスキー修道院にて
イルクーツク・1968(昭和43)年ロシア取材旅行にて 右:井上靖


特別展「『おろしや国酔夢譚』の世界」
会期:10月24日(土)~12月13日(日)
会場:鈴鹿市大黒屋光太夫記念館(入館無料)
http://suzuka-bunka.jp/kodayu/

古里だより 霜月(一)
こどもたちと秋の一日

2015/11/02更新

行楽日和の10月下旬、「わんぱく冒険サークル」のこどもたちと公園散策&豆本づくりを開催しました。
長泉町の小学生を対象に、毎月さまざまな企画を行っている「わんぱく冒険サークル」。
紙芝居でおなじみの三ツ沢グッチさんが主宰されています。
昨年より、文学館のスタッフとわんぱく冒険サークルのこどもたちが一緒に秋の一日を楽しんでいます。

まず、こどもたちには、4問のクイズの書かれた紙を渡します。
「かけたり引いたりしても数がかわらないものは?」「長泉町の町の花は?」などなど。
答えは自然公園の中にあり、答えのそばには文字を隠しました。4つの文字を探して、ひとつのことばにします。
クイズの答えが分からなくても、公園を探索すれば見つかります。

鑑真ゆかりの瓊花(けいか)
発見!答えは「わ・ん・ぱ・く」

豆本づくりは、こどもたちに本に親しんでもらうきっかけ作りとして今夏より続けています。
こんなに小さな本でも、表紙、本文、花切れ、ひも(スピン)を付けて、本と同じ作りです。
まずは本文の紙を丁寧に折り、接着します。素敵な本になるためには、きれいに丁寧に・・・。
続く表紙は好きな紙を選び、厚紙を貼った後にまわりを巻いていきます。
本文にひもと花切れを付けたら、表紙と合わせて完成!
手のひらサイズだからこそ、完成した喜びと達成感があります。

色づく柏葉あじさい
真剣なまなざし

色づく柏葉あじさい
葉っぱの模様の豆本できたよ

最後に、全員で記念撮影をして終わりました。
また新しい遊びを考えながら来年を待ちたいと思います。

色づく柏葉あじさい
豆本を手に記念撮影

古里だより 神無月(二)
秋ふかまる、11月の催し

2015/10/17更新

【[文学展講座]「父・福田正夫と井上靖、戦争のこと」】
と き  11月8日(日)13時~14時 質問時間を含め14時30分終了予定です。
ところ  井上靖文学館2階
講 師  福田 美鈴さん(詩人・福田正夫詩の会代表)
定 員  25名  ◆事前にご予約ください
参 加  500円(入館料をふくむ)

【塩餡(しおあん)のおはぎ】
井上の祥月命日(29日)にちなみ、月に一度、塩餡のおはぎを限定販売いたします。「羊カンでも汁粉でも甘いものがたべたい」と中国行軍日記に綴りました。
11月29日(日)30セット販売、2ヶ入り400円。

色づく柏葉あじさい
色づく柏葉あじさい

鑑真ゆかりの瓊花(けいか)
鑑真ゆかりの瓊花(けいか)

古里だより 神無月(一)
「天体の植民地」写真たより 一

2015/10/9更新

古里だより 長月(二)天体の植民地(三)(2015/9/11更新)を参考にご覧ください。

鳥取県日南町には7地区に「まちづくり協議会」がある。各「まち協」が主体となり自元にあるいろいろな資源を「開発」、維持、アッピールする活動をして町ぐるみで伝統を創っている。公民館活動から社会教育へ、新たな役割がうまれている。()内は地区名。
町の面積のほぼ89パーセントは森林。公共施設には木材を使う方針が伝わります。

①野分の館から福栄(ふくさかえ)遠望
①野分の館から福栄(ふくさかえ)遠望

②井上靖記念館 野分の館(福栄)
②井上靖記念館 野分の館(福栄)

②井上靖記念館 野分の館(福栄)
③野分の館・井上書

④野分の館 開館記念・木製表紙の自由ノート
④野分の館 開館記念・木製表紙の自由ノート

⑤野分の館内 展示
⑤野分の館内 展示

⑥詩碑[天体の植民地]
⑥詩碑[天体の植民地]

⑦詩碑「ふるさと」井上ふみ夫人書
⑦詩碑「ふるさと」井上ふみ夫人書

⑧元、福栄小学校・100メートル廊下_1395
⑧元、福栄小学校・100メートル廊下

⑨元・福栄小学校
⑨元・福栄小学校

⑩福栄創立小学創立100年「學舎百年」碑、1976年除幕
⑩福栄創立小学創立100年「學舎百年」碑、1976年除幕

⑩福栄創立小学創立100年「學舎百年」碑、1976年除幕
⑪松本清張文学碑(矢戸・やと)
「幼き日 夜ごと父の手枕で聞きし その郷里矢戸 いまわが目の前に在り」



⑩福栄創立小学創立100年「學舎百年」碑、1976年除幕
⑫池田亀鑑文学碑(石見・いわみ)
「学才にあらず 閥派にあらず ただ至誠のみ」


⑬日南町庁舎、生山(しょうやま)駅舎など地産地消、木造りの町
⑬日南町庁舎、生山(しょうやま)駅舎など地産地消、木造りの町

⑭町長室
⑭町長室

⑭町長室の井上自筆原稿「幼き日のこと」
⑮町長室の井上自筆原稿「幼き日のこと」

古里だより 長月(四)
10月の催し

2015/9/30更新

【しろばんばまつり】
しろばんばが飛び交う時季となりました。
と き 10月31日(土)~11月3日(火・祝)
ところ 井上靖文学館
「しろばんばの唄」がながれる文学館。洋画家・小磯良平、挿絵入り「しろばんば」(『主婦の友』掲載)を特別展示します。「しろばんばピンバッチ」を30個限定販売。

【塩餡(しおあん)のおはぎ】
井上靖が愛したおはぎ、井上祥月命日(29日)にちなみ、月に一度の限定30セット販売です。「羊カンでも汁粉でも甘いものがたべたい」と中国行軍日記にあります。家族を疎開させた日南町でも、「塩ぼたもち」は井上の好物でふるまわれました。
10月25日(日)10時より30セット販売、2ヶ入り400円。

古里だより 長月(三)
お盆と「魂魄飛びて」

2015/9/17更新

この夏休みの館の催しは「豆本をつくってみよう」と「湯ヶ島のお盆を楽しもう」でした。

◆8月9日(日)は小さなちいさな豆本づくり。てのひらサイズの豆本ですが、表紙、見返し、本文、花切れ、ひも(スピン)を付け、本と同じ作りです。

のりづけは子ども、カッターは大人
のりづけは子ども、カッターは大人

本文を折り、見返しを貼り、表紙を作ります。表紙の紙とひもは、参加者それぞれ、好きなものを選びました。表紙は厚紙を入れるので、ハードカバーのようなしっかりした堅さ。ひも、花切れを貼り付け、最後に本文と表紙を付けたら完成!

オリジナル豆本の完成
オリジナル豆本の完成

◆企画展にちなむ催事。70年目の終戦記念日、8月15日(土)「お盆を楽しもう!」は岡田明子さん、金井さんにお願いしました。
「町ばのお盆は7月15日、田舎は8月15日がおおいようです。伊豆湯ヶ島のお盆は8月1~3日です。湯ヶ島、伊豆の地では、古くはお蚕さんのなりわいのためです。」と伊豆市湯ヶ島在住の岡田さん。お盆の日は土地によって違いがあります。

岡田さんのお話
岡田さんのお話

お盆には、本家・分家をふくめた親族、一族郎党が寄り集まって、年に一度、ご先祖さんを「本家」にむかえ、一緒にすごした後に、懇ろにおおくりする三日間の行事。新盆の菩提寺参り、読経など宗派のちがいはあまりない。家の世帯人数は70年前とはさまを変えて減じた。お盆の行事仕様を新しくするこころみは始まっているようです。

◆お湯ヶ島、伊豆の盆の三日間のしきたり
1日…花(しきび)、だんご、仏様のごはんを持ってお墓参り。
2日…仏様が年に一度、町へ出掛ける日。このために、お弁当としてお赤飯のおにぎりと、「お金」を用意する。施餓鬼。
3日…おしょうろう流し。仏壇の飾りや御供物を流す。

この日は、お赤飯、煮物、仏様のごはん(米となすを刻んだもの)、お団子を用意してくれました。
お団子を平たくつぶすのは、仏様が買い物をするための「お金」(小判)、荷物を背負って還る「背当て」など言い伝えがあるそうです。なす、きゅうりは牛車、馬車に変身します。

みんなでいただきました
みんなでいただきました

◆「魂魄飛びて…」の碑
湯ヶ島熊野山にあり、戦没者の12柱がある一角と天城の山々を臨んでいる詩碑。「あの、いそがしい井上先生がよろこんで書いてくれた。みなで祝杯しその時の父たちの仲間もよろこんだ」と岡田さん。
岡田明子さんの父・宇一さんが郷友会会長だった1962(昭和37)年、湯ヶ島の熊野山戦没軍人共同墓地に焼香台、手洗台を献納しました。さらに3月の彼岸に戦没者遺家族を招き、慰霊祭をひらきました。
また同年、戦没軍人の英霊を慰め、後世に遺すべく、慰霊碑建設を企画。郷土の作家である井上靖へ依頼したのです。同志の二、三人とともに幾度も上京。二年の歳月を経て詩が完成しました。
その間、有志の方々で約百坪の敷地の造成や、柿木川から詩碑の石、長野川から庭石を探した。慰霊碑のための寄付を募るなど精力に活動を続けたそうです。「生き残ったものの義務と責任」を改めて感じました。

「魂魄飛びて ここ美しき 故里へ帰る」

熊野山慰霊碑
熊野山慰霊碑

古里だより 長月(二)
天体の植民地(三)

2015/9/11更新

鳥取県日南町・・井上靖、大事にされて70年。

鳥取県日野郡日南町はいまから24年前、井上靖が1991年1月29日、84歳で逝去された2日後に見開き4頁の「井上靖先生講演要旨」を再刷して、各戸に配布した。
町では、この9月11日~10月25日、「日南町ゆかりの文学者たちPart2井上靖」展を開催する。いまでも井上を大事にしている。

1.井上靖逝去と日南町

70年前、井上は終戦の記事「玉音ラジオに拝して」を8月16日版に載せた。日南町福栄(ふくさかえ)に家族を疎開させた38歳の井上は大阪の茨木から大阪毎日新聞本社に出社していた。

井上靖の三十年忌の頃にはどんな作品が読まれているだろうか。
「もしわたしの死後三十年経ったら恐らくわたしの作品はほとんど消えていくでしょう。もしのこるとしたら一つは『しろばんば』二つ目は『わが母の記』三つ目は『孔子』となりましょう」。1991年1月3日の午後に当館のスタッフに伝えている。その1月29日井上靖は逝かれた。「その三つの作品は永く読み継がれてほしい」と伝えたたかった井上の遺言のように私にはおもえる。(注記1)

「30年を一つの節目をとする」。いろいろな事象をかんがえるときの視点、知恵なのだろう。
変化の速さはいつの世も同じ、仏事にやどる教えはありがたく変革はおそくなるという。供養、法事のアゲドキは最終年忌のこと。「最終年回(忌)を三十三年とする所はおおく、七回忌を以て終わりとする地方もある」(『葬送習俗事典』柳田国男昭和12年)。『同書』には伊豆の天城峠より南へくだった賀茂郡南崎村では百年忌以上になると略式に読経を乞う位のものであり、最終年回(忌)をアゲドキとある。井上家の菩提寺、雲金山妙本寺は天城峠より北にあり「最終年回(忌)を三十三年目とするのがおおいです」と竹内海晴住職は話してくれる。
30年、終わりの「時」、そんなことが井上の脳裏を横切ったのだろうか。

井上は縁ある「ところ」を作品にする。家族を疎開させていた日南町もそのような「地」。
「福栄を舞台にした一つの小説といくつかの詩をかいた。それから30年たちました。」と演題「私の人生観」の講演をはじめている。1978年、日南中学校講堂、井上は71歳だった。
「私が家族と福栄に疎開したのは昭和20年の6月よりその年いっぱい、終戦前後の日本の一番きびしい時代で、私の家にとっても一番きびしい時期でした。それだけのご縁でしたけれども半年の間に福栄よりいろいろのものを得ました。(以下略)」。その「井上靖先生講演要旨」が先に述べた、逝去2日後に町民へ再刷、配布された。「即対応する文化」がある町なのだ。
再刷は13年ぶり。「1月29日、文学界の巨匠、井上靖先生が逝去されました。83才にしてなお、限りない執筆の夢を抱いた現役であり、温厚で常識ある人柄は才能と共に、その死を多くの人々に惜しまれました。福栄に疎開されていたのが縁で名誉町民になって頂いた日南町として謹んでご冥福を祈るものです。」と井上を大事にする弔意を表した。

2.井上靖顕彰の「碑跡」をさかのぼる。

(1)1985(昭和60)年に開館した井上記念館のとなりにある詩碑「ふるさと」にふみ夫人が揮毫した。除幕の1990年、井上は体調がすぐれなかった。その詩碑には原文の最後の語句「古里。」は載っていない。いまとなっては、そこに「日南。」が読みとれるようだ。

井上は井上記念館を「野分の館(のわけのやかた)」と名付けた。自ら記念館の表札を揮毫した。家族疎開した曽根の家がある旧福栄村、散文詩「野分(一)」、「野分(二)」、「野分」の3篇、小説「通夜の客」の舞台になった。

(2)1978(昭和53)年8月、詩碑「天体の植民地」を除幕した。中国山脈の集落は「通夜の客」の舞台、そこでは天体は「植民地」。「通夜の客」はそれ以前の「猟銃」、芥川賞受賞「闘牛」らと「植民地三作品」としての底流があるだろう。

(3)記念碑「學舎百年 井上靖」の揮毫は1973(昭和49)年。日南町立福栄小学校創立百
周年記念碑の除幕は1975(昭和50)年1月。その後に閉校となった学校史には「学童疎開」の記録を読める。

この時勢ゆえに、閉校史は写真の頁をおおく割き、歴代校長の写真史に類するものを目にする。学校、町村など幾多の統合はその度ごとに過去の文書文化は集約され、否、「紙類」廃棄されて「歴史」、社会はやせ細る。学校史を手にして「学童疎開」の記録の有無を一つの「文化」基準にしているが、その掲載は少なくなっている。それが70年なのだろう。

日南町生山(しょうやま)地区には日南町総合文化センターがあり、日南町美術館、図書館、多目的ホールが一体化されている。その美術館の一角には、井上靖については長野軽井沢の「書斎」、松本清張は九州小倉の自宅の「応接室」があり、文豪が迎えてくれる雰囲気がある。コンパクトシティ構想のもと「文化行政」の面で日南内の旧地域との連携もある。「日本の10年先をゆく町づくり」は今も、これからも変わらないのだろう。
図書館には特別に「井上靖・松本清張」書架、閲覧コーナーを設けてある。

3.「日南町の町勢データ」(()は井上靖の育った伊豆市の数値)

現在の日南町は1959(昭和34)年に新市町村建設促進法による総理大臣勧告に基づいて5町村の合併が実現し誕生した。昭和35年の人口は15,286人(44,238人)。
2005(平成17)年には6,112人(36,627人)、45年間で40%(17%)減少した。2014(平成26)年3月末は5,460人(33,311人)6年後の平成32年は4,239人と予想している。
平成26年3月末高齢化率(65歳以上人口の割合)は45%超(34%)は進んでいる。
当面は単独町制を選択して「日南町過疎地域自立促進計画」(H22/4/1~ H28/3/31)の6年目。山林・原野が9割(7.5割)、面積は340.87k㎡(363.97 k㎡)。

☆伊豆市は平成16年に修善寺(昭和34年)、土肥町(昭和31年)、天城湯ヶ島町(昭和34年)、中伊豆町(昭和33年)合併して誕生した。

5.日南町の「顕彰文化」―松本清張、池田亀鑑の顕彰―紹介

松本清張(1909~1992)は小倉市(現・北九州市小倉北区)に生れた。
日南町矢戸(日野郡矢戸村)の生まれは父の峯太郎。事情があり七か月で里子にだされた後に松本家の養子となった峯太郎から幼いころ訪れた矢戸、「ふるさと」のことを聴いていた清張は1948(昭和23)年にはじめて父の故郷を訪れた。松本80歳のとき町民の寄付による谷戸の文学碑に「幼き日 夜ごと父の手枕で聞きし その郷里矢戸 いまわが目の前に在り 松本清張」と刻んだ。父と矢戸のことは『父系の指』(1955年)『半生の記』(1966年)『骨壺の風景』(1980年)にある。

池田亀鑑(1896~1956)は鳥取県日南町(旧日野郡福成村)に生まれた。
父、宏文は福成小学校校長に赴任。小学校四年生まで村の山野を遊び場に幼少期を過ごした。父の転勤により郷里の久古へ。その後、向学の念に燃え上京、苦学して東大文学部国文科を30歳で卒業した。20年後に教授に就任。生涯、国文学研究を重ね、「源氏物語大成」全8巻で終えた。
旧昭和43年、石見東小学校地内に「学才にあらず、閥派にあらず、ただ至誠のみ 池田亀鑑」と刻んだ。


日南町では井上靖、松本清張、池田亀鑑とそれぞれ縁の地区で顕彰をつづけている。これまでの「歴史文化の顕彰」は今の時代だから輝いている。
 

(注記1)1973(昭和48)年に文学館が開館してから、1月3日はスタフの井上家年始挨拶訪問日。例年通りの訪問で、その日は玄関で「・・挨拶だけにして失礼を。と家族の方へ告げた。懐かしい声を感じとった井上先生は呼びとめ応接へ招きいれた」その時の澤田角江さんの手記。

★天体の植民地(三)の写真物語は追ってアップします。「日南町と井上靖」を知っていただければとおもいます。

古里だより 長月(一)
9月の催し

2015/9/6更新

【[文学展講座・七]「井上靖と戦争」】
井上靖は1937(昭和12)年、30歳の二等兵として北支へ出征。輜重兵(しちょうへい。物資などを運ぶ兵士)として行軍した。後々の井上作品にはその時の体験が書かれつづけている。
講師の宮崎潤一さんは、井上行軍当時の稲森小隊長、湯ヶ島同郷の西川隊員(今回、軍隊手帳展示)らから聞き取り調査をしている。井上の戦争体験とその関連作品、「文豪の戦争」のお話を聞ける機会です。

と き  9月20日(日)13時~14時 質問時間を含め14時30分終了予定です。
ところ  井上靖文学館2階
講 師  宮崎 潤一さん(『井上靖と戦争』著者)
定 員  25名  ◆事前にご予約ください
参 加  500円(入館料をふくむ)

9月27日(日)【塩餡(しおあん)のおはぎ】をどうぞ!
井上靖が愛したおはぎ、井上祥月命日にちなみ、月に一度、限定30セット販売します。
井上の中国行軍日記には「羊カンでも汁粉でも甘いものがたべたい」と綴られています。
9月27日(日)10時より30セット販売、2ヶ入り400円。

古里だより 葉月(三)
あの夏から70年「井上靖と戦争・家族・ふるさと」展―見どころ

2015/8/22更新

◆夏がくればおもいだす。はるかな「故里」、白い雲。
その夏、井上は鳥取県日南町福栄に疎開させた家族を、集団疎開させられた学童は遠くの母親を、勤労作業動員学徒は学舎を、応召遺族は・・「幸せ」を願っていた。夏がくれば70重ねの「幸せ」を幾夏もと思ってほしい。
井上は現在ある伯備線上石見駅から旧福栄村へ、約二時間歩いて家族を疎開させる。産後二か月のふみ夫人、子ども4人、74歳の義母の一行は藁ぞうりに履き替え、井上が生後一月にならない次女を抱いて、ラクダのこぶといわれる二つの峠を超えて、「天体の植民地」へ。70年まえの6月19日のこと。

8月6日(木)より始まった「井上靖と戦争・家族・ふるさと」展は、井上の諸点から「戦争、家族、ふるさと」を私たちが考え、思いを起こし、井上作品を読みこむ企画展。

◆井上靖は1937(昭和12)年8月に応召、10月より北支を行軍、11月に脚気と診断されて北支の石家庄、天津と野戦病院を転院した。翌年の1月19日大阪港帰還後、名古屋陸軍病院分院に転院。「行軍日記」は8月25日応召より翌年3月7日までの「日記」(社員手帳)である。
◆井上自ら防空壕を家の横に掘った茨木町(大阪府茨木市)の借家から大阪毎日新聞へ通った井上は詔勅記事「玉音ラジオに拝して」を8月16日に載せた。井上が鳥取県福栄に疎開させた家族を帰阪させたのは1945(昭和20)年師走。
◆社員を辞し、作家としての仕事を本格的にはじめたのは1950(昭和25)年、第22回芥川賞受賞のあとだ。従軍体験、疎開、友の戦死などは詩、小説、エッセイで「井上の戦争」を深めている。そのために「日記」にいく度かひも解いたのだろう。鉛筆、万年筆で、その文字が消えないように上からなぞった跡がある。
◆本展では、井上が戦地から持ち帰った銃弾、湯ヶ島尋常高等小学校時代の同級生で、部隊を同じくした西川喜三郎氏の「軍務日記」、アルバムなどを初めて公開している。井上「中国行軍日記」展示は二度目。

住んでいた家の辺り
井上靖の社員手帳(1937(昭和12)年8月25日より翌年3月7日までを記す)

住んでいた家の辺り
西川喜三郎さんの軍務日記


〈井上入院の日〉、「社員手帳」、「軍務日記」の違いをよむ。
井上日記
西川日記

◆子どものための冊子「あすなろ道場」プレゼント!
夏休みの8月31日(月)まで。館内からヒントを探してクイズにこたえる。オリジナルしろばんばスタンプはお楽しみ。

古里だより 葉月(二)
〈報告〉詩の朗読とチェンバロ
in Gibson Brands Showroom TOKYO 7月29日

2015/8/7更新

詩や小説の朗読と楽器の演奏の饗宴は、その演者の作品解釈をつたえてくれます。 とりわけ、詩の朗読の場合は、取りあげた作品、演奏曲目、そのアレンジなど、かならずあたらしい物を語りだすようです。 今回の「朗読とチェンバロ」は井上の詩をほかの作家のそれと聞きわける機会となりました。朗読は「易しい、優しい、うるわしい」語感をかもしだしていました。 「西洋の教会ではチェンバロ演奏曲のあいだに聖書をよむことがある。聖書にかわって詩の朗読はチェンバロに合っているかもしれません」平澤さんの話です。八月にはウイーンのサマーセッションへ。10月18日企画展関連「鎮魂~朗読とチェンバロコンサート」に出演します。

・詩の朗読 ひらつか すみこ ・チェンバロ演奏 平澤匡朗
・朗読した詩
「クローバーの原っぱで」高橋 順子、「湖上」中原 中也、「海」高田 敏子、
「窓のとなりに」谷川 俊太郎、
「愛する人に」、◎「六月」◎「夏」、「稲の八月」、◎「シリア沙漠の少年」5編は井上 靖
◎印の井上作品は「遺したいことば」にリンクして読めます。

・チェンバロ演奏曲目
J. S. バッハ:平均律曲集第2巻~プレリュード 嬰ヘ長調 BWV882、嬰ヘ短調 BWV883、ホ長調 BWV878、第1巻~プレリュードロ長調 BWV868、ホ長調 BWV854、嬰ヘ長調 BWV858、ハ長調 BWV846、3声のインヴェンション~第5番 BWV791、フランス組曲 第2番 BWV813~サラバンド
  演奏曲目は朗読の詩織でした。

・ランチタイムミニコンサートは音楽家を招き毎水曜日、12:30~13:10にひらかれています。八重洲2-3-12のオンキョ‐八重洲ビル1F 入退場自由です。
第32回ランチタイムミニコンサート
住んでいた家の辺り
左はチェンバロの平澤さん、右は朗読のひらつかさん

・「稲の八月」は現在開催中の企画展「井上靖と戦争・家族・ふるさと」(12月25日まで)にふさわしい朗読でした。

稲(いね)の八月
             井上 靖
稲の八月
のびんとする稲の八月

山も木も動かない真夏(まなつ)の昼
見よ、その華々(はなばな)しい稲の挑戦を
真直(まっすぐ)にのびている葉末(ようまつ)は
宣戦(せんせん)の槍(やり)の穂先(ほさき)だ
一面の穂先の海だ
おお、八月の日光の洪水の中に
稲は只一途(ただいちず)にのびんとする

遠く花の香(か)を忘れた八月の風は
すばらしい戦捷(せんしょう)の便(たより)だ
輝(かがや)かしい稲(いね)の乱舞(らんぶ)の中に
サラサラサラ・・・・・
あの謙譲(けんじょう)に聞える歌は
つつましい稲の凱歌(がいか)だ
真剣な生命の謳歌(おうか)だ
山が青色に融(と)け初めると
稲は敬虔(けいけん)な祈(いの)りを知っている
夕闇(ゆうやみ)の中に
遥(はる)かに見渡(みわた)される稲田(いなだ)は
奥深い僧院(そういん)の様に
何(なに)か聖純(せいじゅん)な物を湛(たた)えている
その原始の眠(ねむ)りの上には
やさしい夜靄が流れる

山が眼ざめ
稲が眼ざめ
私が眼ざめる

おお、見よ
一晩にぐ(○)ー(○)っ(○)とのびた葉末から
王気の様に、稲の情熱は昇天(しょうてん)する

稲の八月
のびんとする稲の八月

戦捷・・・戦争に勝つこと
凱歌・・・勝利を祝う歌
謳歌・・・ほめたたえること
靄・・・・もやのこと

1929(昭和4)年11月1日発行『日本海詩人』11月号に発表、筆名井上泰22歳
詩集『シリア沙漠の少年』、1985(昭和60)年、8月25日教育出版センター発行収録
2013(平成25)年8月25日銀の鈴社で28年ぶりに復刊、当館にて販売中

古里だより 葉月(一)
「地球上で一番清らかな広場」を世界の子どもたちへ!

2015/8/7更新

伊豆市の湯ヶ島、狩野、月ヶ瀬の三つの小学校が2013年に統合してできた伊豆市天城小学校はそれまで狩野小学校があった所に開校して2年が過ぎた。新たな学校の歴史をつくりはじめている。
現在の湯ヶ島郵便局の左隅には井上靖の母校、(元)湯ヶ島尋常高等小学校の碑がある。湯ヶ島、狩野、月ヶ瀬の三校は、「同じ」142年の伝統ある小学校のはずだった。
井上が「地球上で一番清らかな広場」の詩を(元)湯ヶ島小学校におくったのは34年前の1981年で、その詩碑は校庭の片すみにひっそりと佇み、ときに訪れる井上フアンの声を天城の風とともに聞いている。いずれは、詩碑は大地にかえるのだろう。そんな思いがしている。
7月16日(木)10時、青羽根にある天城小学校、5年児童、学年全員30名(1名欠席)が大きな井上の写真、年表の前に6列整列した。詩を暗唱してくれた。

「地球上で一番清らかな広場」

地球上で一番清らかな広場。
北に向って整列すると、
遠くに富士が見える。
廻れ右すると天城が見える。

富士は父、天城は母。
父と母が見ている校庭で
ボールを投げる。

誰よりも高く、美しく、
真直ぐに、天にまで届けと、
ボールを投げる。

新しい天城小学校では、朝、児童全員で「詩」をよんでいて「広場」の詩も詠んでいるとのことだ。(元)湯ヶ島小学校の詩が天城の子どもらのとなった。また、子どもらの詩「広場」は、傲慢なひと、おとなへの警句の詩のようだ、と聞く。よく詠むとそのようだ。

住んでいた家の辺り
「地球上で一番清らかな広場」斉唱

◆いつの時も「清らかな広場」は地球上にあった。戦禍に遭うような状況下では子どもらは「真直ぐに、天にまで届けと ボールを投げる」ことはできない。戦後、井上は浮田要三、竹中郁、坂本遼等と子どものための童詩、童画雑誌『きりん』にかかわっていた。1948(昭和23)年『きりん』に「どうぞお先に!」、「くもの巣」を発表した。「ほくろのある金魚」、「ひと朝だけの朝顔」は1951(昭和25)年までの創作童話である。あの夏から70年、「地球上で一番清らかな広場」、世界の子どもへ「争いのない広場」を願う詩なのだろう。

住んでいた家の辺り
先ずは、調べてから質問する

◆児童は、館内で15分のDVD「洪ちゃの旅立ち」をみて、当館がつくった「あすなろ道場」小冊子に挑戦した。クイズ①あすなろ物語のあすなろとは、「あすはヒノキに○○○」でしょうか?②通信簿をもらう日だけ、おぬい婆ちゃんが作ってくれる自慢のごちそうはなんでしょうか?・・・などである。
夏休みが終わったらグループ学習で地域のことを学ぶ。文学館にきて井上靖を知ったことは役立つとのことだ。
児童が6年生となる来春には、「国語 上」(「学校図書((株))の教科書)を手にする。そこには井上の詩「出発」が載っている。井上を思い出してくれにちがいない。それにしても一学年31名、統合して2年、その先が気になる。

◆さる6月、天城小では「山の学習」で「おぬいばあちゃんカレーをつくった」、「簡単だ!」。
「なんでここに文学館があるのですか?」、「最初に書いた小説はなんですか?」、年表を見て「あっ、芥川賞だ」。当日の第153回賞の発表日を知っていた。井上は第22回の受賞。あすなろ忌の劇団「しろばんば」出演5名は自慢げな話しぶり。文学館は全員が初めて、のど飴の「おめざ」の味は忘れることはないだろう。元気な子どもたちは11時に帰って行った。

住んでいた家の辺り
天城へ帰る

◆「地球上で一番清らかな広場」詩碑は1981(昭和56)年3月、旧湯ヶ島小学校の校庭に建立。井上靖74歳。井上の母校・湯ヶ島小学校は2013(平成25)年閉校。伊豆市天城支所0558(85)1111へ連絡して校庭へ入って詩碑を見学してよいことになっている。
◆文学館で井上童話4話「どうぞお先に!」、「くもの巣」、「ほくろのある金魚」、「ひと朝だけの朝顔」をぬりえセットの500円で取り扱っている。

文月(三)
豆本、お盆、おはぎ、夏をおくる文学館

2015/7/24更新

・道場、講座の参加は入館料のみ・事前にご予約ください

【第4回あすなろ道場~豆本つくり!~】
日時 8月9日(日)13時~14時 
定員 親子で6組
小さい、ちいさな「豆本」を夏の思い出に!

住んでいた家の辺り

【[文学展講座・六] ~ふるさとお盆行事~】
日時 8月15日(土)13時~14時 定員 20名
講師 岡田明子(伊豆市湯ヶ島宿在住)
文学館ふるさと行事―8月お盆―ご先祖さまをお迎え、お送りします。
天城湯ヶ島では「繭あげ仕事」が一段落した8月の1,2,3日がお盆です。養蚕が盛んだったころの名残です。

◆戦後70年「井上靖と戦争、家族、ふるさと」展

会期 8月6日(木)~12月25日(金)

昭和12年8月25日に召集うけ、湯ヶ島から出征した井上靖、土屋正之、西川喜三郎の3名は湯ヶ島尋常高等小学校の同級生、北支で同じ新野(にいの)中隊稲盛隊の二等兵。井上「中国行軍日記」、西川「軍務日記」それぞれの日記、手紙などを公開。「書かない。書けない。」事柄が読みとれるでしょうか。

文月(二)
「美弱悲傲」~小説「山の少女」と散文詩「シリア沙漠の少年」

2015/7/14更新

井上靖『詩集 北国』のあとがきの一節「自分の作品が詩というより、詩を逃げないように閉じ込めてある小さな箱ような気がした。」、井上フアンは納得するだろう。
五月の連休ころから火山活動報道がある今年の「箱根山」、「短編小説「山の少女」の舞台を訪ねた」ことをきいた。その時に、詩「シリア沙漠の少年」と小説「山の少女」の二編から、「弱さ」の美しさがみえかくれする少女と少年は、こころ傲れる大人の悲しさをみているように改めておもえた。井上文学の基調音のひとつに「美弱悲傲」の調べがあるのだろか。

460編とも数える井上の散文詩は幾重にも織りなして、天上の井上星群となっているのだろう。短編小説「山の少女」は詩「シリア沙漠の少年」からうまれ、「大人」になった少年、少女が井上作品群で生きつづけている。
「5月中旬に「山の少女」を金時茶屋にたずねた。仙石原の公時(きんとき)神社があるところから山頂まで、「約1時間20分」の予定が2時間となった。標高1213メートルの金時山からは大涌谷方面の噴煙を眺望できた。昭和22年、14歳の「少女」、小見山妙子さんはいまも山頂にある金時茶屋につめている。1933(昭和8)年1月生まれの「少女」に会えた」とのことだ。

新緑のころに井上は金時山の麓、箱根町仙石原の富士荘で「山の少女」の主人公となる小見山さんにあった。翌日、金時山にのぼった。その1952(昭和27)年、『改造』11月号に短編小説「山の少女」を発表した。詩「シリア沙漠の少年」はその5年前の1947(昭和22)年『コスモス』第5号発表だ。以下に「山の少女」に沿って抜粋した。
(「井上靖小説全集」第十三巻1973(昭和48)年)

「私」は小早川那美子の小説の原稿を社会部の八坂記者から預かる。那美子は足柄峠の少女、丹沢娘と言われている。終戦直後の外電記事、シリヤ沙漠の中で羚羊の群れと一緒に生活していた少年が発見されたことが報じられたことがある。その少年の詩を書こうと思う。箱根の少女、一人で山小屋に住んでいる「野生の少女」。「私」は原稿を読んだ後、八坂記者とともに那美子を箱根の仙石原へ訪ねる。五月の初めだった。尾根伝いに三時間程かかって、山の頂に着く。(略)

山を降りると天気の予想がつかないで不自由だという。山頂に居る限りでは、めったに晴雨の判断を誤ることはない。丹沢山地から吹いてくる東北の風か、富士の方から吹いてくる北西の風の場合は必ず半日もしないうちに雨は上がる。またどんなに快晴であっても駿河湾、相模湾の方から吹いてくる南西、東南の風だと、雨か曇りになる。
秋から冬にかけて、丹沢の方に狐火が見える。数珠のように橙色の火が一列に並んで、ゆっくりと移動して行く。
流れ星は必ず駿東郡東部の河洲に落ちる。(略)

箱根笹と熊笹の原が長いこと交互に続いて、初めはゆるやかな上りだったが、そのうちに道の勾配は次第に険しくなり、それにつれて路面に岩石が露出して歩きにくくなった。私たちは途中で幾組かの若い男女の登山者たちと行き違った。山桜の造花のような白い花が所々の藪蔭に咲いていて、鶯の鳴き声が時々斜面の下の方から聞えて来た。(略)

私たちが昨夜止まった仙石原は眼下にあった。そして仙石原を囲む幾つかの小高い山も丘陵もこの高処から見ると、一様にその高度を失って仙石原をそのうちに包んだ大きい平坦な原野に見えた。右手の方は私たちの坐って居る山の続きである外輪山が蜿蜒として大きくその原野を抱くように迂回して、遠くの蘆ノ湖は小さい水溜りといった貧しい感じだった。(略)

大涌谷の噴煙
左より大涌谷の噴煙、仙石原のススキ原、芦ノ湖を遠望

登山者たちが波の引くように一人残らず引き上げてしまったのは四時頃だった。私と八坂は彼女の家の上がり框に腰を下ろして、お茶を御馳走になると、直ぐ帰途に就くことにした。那美子と彼女の兄である二十二、三の、彼女と瓜二つの顔立ちを持った温和しい青年が、途中まで私たちを送ってくれることになった。
青年は無口で殆ど喋らなかったが、彼女の方は歩きながら私たちの訊くままにいろいろの樹木の名前や鳥の名前を教えてくれた。
ブナ、ナラ、ソノ等の斜面の雑木の中で浅い緑に萌え出そうとしている樹木について、彼女はいちいち指差してはその名を口に出して言った。歩いて行く道端にはグミの木が多かった。麓の方ではグミは六月に実を持つがここは寒いから九月にならないと実らないということであった。
山桜は満開だったが、普通の里にある桜はここでは花を咲かせない。大抵蕾の時に、雹のために落とされてしまうということだった。ヤシャの木と、柳の木が微かに芽を吹き始めているのを彼女は教えてくれた。紫の花を着けている山ツツジは、彼女の言に依ると、やがて一、二カ月すると赤いのが咲き、更に一カ月すると、白いのが咲くということだった。
彼女は手当たり次第に眼につく植物について語った。ツツジも風に頭を抑えられるのが、どれもひどく丈が低かった。路傍の繁みにはウツギ、リンカ、ヒイラギと言った木が多かったが、これらもツツジ同様に丈が低かった。
鳥は夕方だったのでミソサザイしか鳴いていなかった。ミソサザイは麓では寒い時しか居ないが、ここは年中寒いから一年中その鳴声を聞くことができるということだった。
「来月になると、コマドリ、クロッチョ、カッコ、ツツドリなどがいっぺんに来ます。もうぼつぼついるかも知れない。今朝、お母さんが上がって来る前に、山ガラが家の中に飛び込んで来て、それを猫が獲っちゃった。いやね、鳥が獲られるのは」と彼女はそう言って眉をひそめて見せた。(略)

元城小学校
晴れた日には標柱「天下の秀峰 金時山」の後ろに富士がみえる。

「いまはカンコが出ているの。味噌汁の中へ入れると美味しいわ。大抵毒消しに油を一、二滴入れるの。来月からは、チイタケ、ホウキタケ、鼠タケ」
そうした山の生活に必要な知識を、彼女は、小学校の六年生の時亡くなったという富士山の強力だった父親から、教わっているようであった。
彼女は父親が亡くなる前に、父母や兄妹たちと一緒に一家五人で山に住んだことがあり、幼時の、その時の山の生活の楽しさが忘れられないで、二十三年四月から一人でこの山の生活を始めたということだった。(略)
☆小早川那美子は次の日に案内する百子崖(びゃくしいわ)を前節で説明している。
「崖の縁に大きい岩があって、その上に乗ると、岩がぐらぐら動くの。わたし、どうしてあんなきれいなところで死ぬ気になるかと思うわ。私はその岩の上に乗っていると、どんな悲しい時でも、心が落着いて来るの」

「そんなところへ時々行くの?」
「めったに行かないけど、それでも冬以外は月一回ぐらい行くかしら。明日、御案内します。いつか、夜行ったら、足の下に雲があってそれが月の光で青白く見えるの。何とも言えない、あんな気持!」
私たちが、この山中で彼女の心を一番に魅了しているらしい百子崖への入口(と言っても、別段道があるわけではなかったが)まで来た時、彼女は、兄に私たちの道案内を頼んで、そこから山の家へ引き返して行った。なんでも、もう母親や雇人が下山する時刻なので彼等に明日持って来て貰うもので何か依頼するものがあるということだった。
「案内すると言っておいて、ごめんなさい、またね」
そんな風に、この時だけませた口調で言って、小早川那美子は、口調とは反対に子供っぽく頭を下げると、もと来た道を引き返して行った。私たちは、暫くは彼女の背後姿を見送っていたが、彼女は一度も振り返らないで、そのまま雑木の蔭へと姿を消して行った。
  私たちの道案内を那美子から託された青年は、私たちを路傍に待たせておいて、何回も道のない斜面へ降りて行っては引き返して来た。なかなか百子崖への降り口が判らないらしかった。

それから二十分程して、私たち灌木の生い繁っている斜面を木の枝に掴まって降りて、百子崖の絶壁のうえに立った。仙石原に面した方の斜面の明るさに比して、ここはいかにも山の裏側と言った感じで雑木に鬱蒼と覆い匿された暗い渓谷が、駿東郡東部の、所謂ミクリヤダイラの、同じように暗い感じの平原へと落ち込んでいた。人家も、樹々の茂みも、そしてこの平原の中央を走っている筈の相沢川も、御殿場線も、どこにもそれらしいものを発見することはできなかった。暗褐色の凹凸の烈しい地殻が、ただ、無数の段階の濃淡に彩られて、沈鬱な表情で沈み拡がっていた。畳五、六畳もあろうかと思われる大きい岩が、絶壁の突端を危なっかしく乗っていた。小早川那美子がその上に乗ると動くと言った岩は、この岩のことであると思われたが、それは勿論微動だにしそうではなかった。
私と八坂二郎は、その岩の上に立って、これまた黙りこくったまま、私たち二人とは異った方角へ眼を向けていた。深い渓谷を隔てた向かい側の山の斜面から霧が湧き起ろうとしていた。(完)

妙子さんは「金時茶屋」で、いまも、息子の秀峰さんと料理などで登山者をもてなしている。
「井上先生は小説のなかで好く書いてくれています」と。

小見山妙子さん
「山の少女」のモデル小見山妙子さん、金時娘

◆詩「シリア沙漠の少年」は終戦直後の外電報道記事をもとに1947(昭和22)年5月1日、東京都コスモス書店発行の『コスモス』第5号に発表。その5年後に小説「山の少女」発表。

「シリア沙漠の少年」
シリア沙漠の中で、羚羊(かもしか)の群れといっしょに生活していた少年が発見されたと新聞は報じ、その写真を掲げていた。蓬髪(ほうはつ)の横顔はなぜか冷たく、時速50マイルを走るという美しい双脚をもつ姿態はふしぎに悲しかった。知るべきでないものを知り、見るべきでないものを見たような、その時の私の戸惑いはいったいどこからきたものであろうか。 その後飢えかかった老人を見たり、あるいは心傲(おご)れる高名な芸術家に会ったりしている時など、私はふとどこか遠くに、その少年の眼を感じることがある。シリア沙漠の一点を起点とし、羚羊の生態をトレイスし、ゆるやかに泉をまわり、まっすぐに星まで伸びたその少年の持つ運命の無双(むそう)の美しさは、言いかえれば、その運命の描いた純粋絵画的曲線の清冽(せいれつ)さは、そんな時いつも、なべて世の人間を一様に不幸に見せるふしぎな悲しみをひたすら放射しているのであった。

詩「シリア沙漠の少年」を詩集名とした初版は1985(昭和60)年「教育出版センター」で発刊した。井上靖78歳。以下は編纂の経緯などである。
井上は宮崎健三氏に若い人たちに読んでもらいたい、あるいは読んで貰っても理解して貰えるであろうと思われる詩を選んで頂き、「シリア沙漠の少年」一巻に纏めて頂いた。井上が詩を書き出したのは昭和の初め、金沢の高等学校(旧制第四高校)時代で、20、23歳の頃である。そしてその頃高岡で詩の同人雑誌『北冠』を主宰しておられた宮崎健三氏と親しくなった。
詩集「シリア沙漠の少年」は現在、市販されている唯一の井上靖詩集であり、28年振りに復刊して当館でも販売している。2013(平成26)年:第2刷「銀の鈴社」発行@1200円+税


「シリア沙漠の少年」
詩「シリア沙漠の少年」画・駒宮緑郎

◆井上文学館第300回読書会テキストは「山の少女」だった。
「山の少女」を井上文学館第300回読書会テキストにしたのは2009(平成21)年2月14日。その日の読後感に「植生、鳥の名前、地形の緻密な移ろいの描写が少女の美しいこころを際立たせる」とあった。そのときは詩「シリア沙漠の少年」は話題にのぼらなかった。
その後、2010年9月11日、第326回読書会のテキストは「墓地とえび芋」だった。最後の読書会となり参加者は二人。「井上読書会」は「一時中断」として終了した。
最初の読書会は井上文学館開館2年前に1971(昭和46)年5月4日、テキスト「おろしや国酔夢譚」25名スタートした。
昨年、当初から参加され、2010年、最後の読書会にこられた井上フアンの訃報がとどいた。読書会は記録されていて「時を経て井上作品の読み方は深みが増して、変わってきたのがわかる。若いときに井上を読んでいたからだ。」とある。同じ作品を幾度もとりあげている。

文月(一)
井上靖文学碑~富士宮~紹介

2015/7/4更新

「核兵器廃絶平和都市宣言」の標柱はよく目にはいってきます。富士宮市にはその標柱が中央図書館、富士山せせらぎ広場などにあり、富士宮市総合福祉会館前に建てられた8カ所目の標柱に井上靖碑文がそえられました。その碑文はJR沼津駅南口の碑文と同じです。「標柱建設を進める会」の募金運動がきっかけとのことです。


住んでいた家の辺り
富士宮市総合福祉会館前の碑文
「若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にはない。」


所在地・静岡県富士宮市総合福祉会館前
建立日・2014(平成26)年8月6日
建立者・富士宮市
素 材・ステンレス (高さ2.3m、幅1.1m)


元城小学校
JR沼津駅南口の碑文

小説『氷壁』では原子科学について常盤大作と八代教之助とのやり取りがあります。井上フアンに、いま、あらためて「読みがえる」でしょう。

常盤大作は問題を自分の立場へ持って来て言った。
「私などと違って、八代さんは、なんといっても、生活を若さで充実させておられる。原子科学というものは、私など知らないが、人類の夢がいっぱい詰め込まれているものなんでしょう。あらゆる可能性がその中にはいっている。それにうつつを抜かしておられる。やはり羨(うらやま)しい限りですよ」
常盤が言うと、
「棺を覆うた時の、若さの充実量は、私の場合、相当な数字になるというわけですかな」
教之助は笑った。が、すぐ、
「しかし、そういうことは、どうも実感としては来ませんな。私はエンジニアですから、専門の仕事には一応夢中になりますが、強(あなが)ち原子科学の中に、明るい人類の夢や可能性ばかりが詰まっているとは思えませんな。そこにはまた、人類の亡(ほろ)びの可能性も詰まっているわけです」
「そう。亡びの可能性も詰まっている。しかし、亡びの可能性で裏打ちされたことで、初めて人類はここに、あるべき姿におかれたことになりませんか。(略)」

――『氷壁』五章より

水無月(二)
ゆかりの地 浜松へ。

2015/6/26更新

井上靖は家族と一緒に13歳からの2年間を過ごしました。井上フアン散策スポットが浜松駅から歩いて行けるところにあります。

井上は1920(大正9)年2月から1922(大正11)年3月まで両親のもとで弟、ふたりの妹と浜松で暮しました。軍医の父・隼雄が朝鮮から浜松へ着任してから台北へ転任となる1922(大正11)年3月までの約2年間です。
伊豆湯ヶ島の土蔵で靖を3歳より13歳まで、育ててくれた戸籍上の祖母・かの(『しろばんば』のおぬい婆さん)がジフテリアで亡くなったのは大正9年1月でした。
靖は2月、湯ヶ島尋常高等小学校から浜松尋常高等小学校(現・元城(もとしろ)小学校)へ編入、3月、静岡県立浜松中学(現・浜松北高校)の受験に失敗、4月、浜松師範学校附属小学校高等科に入学、その一年後、首席で浜松中学へ入学します。

住んでいた家の辺り
住んでいた家の辺り

家族と暮らしていた家、この辺りでしょうか?

元城小学校
元城小学校

元城小学校から浜松北高校方面へ。

軽便鉄道の跡
軽便鉄道の跡

「井上さんは、家から学校が近いため、雨のときだけ軽便鉄道をつかいました」。その路線跡は懐かしい駅のタイル写真を敷きつめ遊歩道です。

浜松北高校では、受付を経て「記念館」が見学できます。
同館には浜松中学校時代の校名板、卒業生からの寄贈品、井上ふみ夫人からの手紙も展示されています。記念館の近くに静岡大学附属浜松小学校(元・浜松師範学校附属小学校高等科)があります。

井上靖、浜松中学校一年生の作文「秋の夜」。

「秋の夜」

 大空には宵の明星が煌いて居る。月は昼の様に、梢の上に冱え渡って居る。僕は何時の間にか、月の麗しさにうかされて、裏の田圃の小川の橋の上に佇んだ。天林寺の森がこんもりとして、薄黒く月の光に見えて居る。世間はひっそりとして木の葉の戦ぎもなく、深い眠に落ちた様に静かである。地には早や夜露が降りたのか、稲の葉末には、琥珀の様な水晶の様な玉が煌めいている。月に対して、余声を張上げて悲しく鳴く虫の音は、切々にいよ秋の深くなったのを思わせる。
 折しも、冷やかな風は汀の秋草を吹き乍ら、面をはらった。町の方を見ると唯電燈ばかりが、輝いている。夜更けた郊外には、犬の泣き声一つ聞えない。夜はいよいよ更けて、虫の声は細く哀れは愈々増して来る。


1921(大正10)年12月20日、静岡県立浜松中学校校友会発行の『校友会雑誌』第51号に発表。署名は「一年一組 井上靖」14歳
古書店「時代舎」店頭の『雑誌』は94年振りに「利用され、読まれる」ところへ。「古書店」がいまでもある浜松で井上は過ごしたのです。


詩「カマイタチ」の舞台・犀ヶ崖。
三方ヶ原の戦いで惨敗した徳川家康軍は敗走し浜松城に籠城。武田軍に対して夜襲をかけた場所です。「犀ヶ崖に白い布を掛け、あたかも橋がかかっているよう見せかけて、敵を転落させた」といわれています。

犀ケ崖
犀ケ崖


「カマイタチ」

学校へゆく途中に犀ケ崖という小さい古戦場があった。昼でも樹木鬱蒼とした深い谷で、橋の上からのぞくと、谷底にはいつも僅かな溜り水が落葉をひたしていた。ここは日暮時にカマイタチが出るというのでみなから怖れられていた。カマイタチの姿をみたものもない。足音を聞いたものもない。が、そいつは風のようにやってきていきなり鋭利な鎌で人間の頬や腿を斬るという。私たちは受験の予習でおそくなると、ここを通るのが怖かった。鞄を小腋にかかえて橋の上を走った。
ある時、学校で若い先生がカマイタチの話を科学的に説明してくれた。大気中に限局的な真空層が生じた場合、気圧の零位への突然なる転位は鋭い剃刀(かみそり)の刃となって肉体に作用すると。そして犀ケ崖の地勢はかかる大気現象を生起しやすい特殊な条件を持つものであろうと。その時からカマイタチという不気味きわまる動物への恐怖は私から消失したが、私が人生への絶望的な思惟の最初の一歩を踏み出したのは、恐らくこの時なのであろう。
私はいまでも、よく、ふとカマイタチのことを思い出すことがある。突如、全く突如、人間の運命の途上に偶発するカマイタチ的エア・ポケットの冷酷なる断裁!すでに犀ケ崖は埋立てられ、何年か前から赤土の街道がまっすぐに旧陸軍飛行場に走っているが―。

1947(昭和22)年6月10日『火の鳥』に発表。井上靖40歳
詩集『シリア沙漠の少年』、1985(昭和60)年8月、教育出版センター収録。


★浜松北高等学校同窓会総会のオリジナル装丁本
平成3年度 浜松北高等学校同窓会総会(実行委員長・鈴木孝尚(新15回卒))は『少年・あかね雲』(新潮社)オリジナル装丁本を発行。

装丁本
装丁本


装丁本の写真の表紙は平成2年の4月7日、裏表紙は11月27日に同窓会総会実行委員長、鈴木氏撮影。
発行の経緯は「記念講演会講師を快諾してくださいました井上靖先生でしたが、平成3年1月29日、帰らぬ人となってしまわれました。謹んで哀悼の意を表します。井上先生は大正10年から2年間私たちの母校に在籍され、「帽子」は当時の浜松が舞台として登場する作品です。(略)」です。
当館で装丁本を展示しています。

水無月(一)
文学館・あじさいチェンバロコンサート

2015/6/20更新

会場
42年前の文学館開館式は上段でおこなわれました。

イベントは屋外・屋内いずれにしても天気がよければ3割かた成功。この時季、梅雨の晴れ間にめぐまれて、「日差しが強すぎる」とは、ばちが当たるでしょう。
「ことばの音色 朗読とチェンバロコンサート」はそんな6月13日(土)の午後の催しでした。コンサート会場に用意した50脚の椅子のどれかに井上靖夫妻は1973年11月25日、文学館の開館式で腰かけられました。同日にビュフェ美術館もオープンしました。

「星と祭」
開館式では山本直純作曲の祝典序曲「星と祭」が演奏されました。

『わが母の記』の11月25日のこと(式の写真は館ロビーに掲示しています。)
「慌しく朝食をすますと、何個かの鞄を玄関に出した。開館式用の洋服を入れた鞄もあれば、葬儀の喪服のはいった鞄もあった。仕事の方は他の時と違うので休載させて貰う以外仕方がなかったが、開館式の方は主催者が方々に招待状をだしてあったので、今となってはどうすることもできなかった。葬儀が二十四日、開館式が二十五日、気持ちの切替えがたいへんであったが、危ないところでかさならなかったことをせめてものこととしなければならなかった。 結局、家を出たのは十時近くになっていた。くるまは東名高速道路にはいった。空は気持ちよく晴れ、富士が美しく見えた」(井上の母やゑ死去88歳)

平沢さん
あすなろの木の前の平沢さん

あすなろの木の前での演奏、対面には5月ににぎやかだったケイカがあります。

第一部・平沢さんが選んだチェンバロバロック音楽。
【チェンバロバロック音楽】
平沢匡朗(まさあき)さんは洗足学園音楽大学、国内外でピアノの演奏と指導をしています。「身近でチェンバロの演奏を、ことばにのせて」井上フアンの平沢さんの想いがありました。
紫陽花チェンバロコンサートは楽器チェンバロ、演奏曲のお話をまじえた進行でした。
・かっこう(ダカン作曲)
・調子の良い鍛冶屋(ヘンデル作曲)
・パヴァーヌとガイヤルド(バード作曲)
・フランス組曲第5番ト長調(J.S.バッハ作曲)
・ゴールドベルク変奏曲よりアリア(J.S.バッハ作曲)
石面の庭の反響音が白塀、建物、そのうしろの竹林と木立に流れるアジサイホール、心配していました平沢さん自らによる調律もなく‘ご機嫌がよいチェンバロ‘でした。

詩集『シリア沙漠の少年』を紹介
詩集『シリア沙漠の少年』を紹介

第二部・朗読とJ-pop。
【朗読】
浅野和子さん(伊豆市)は詩集『シリア沙漠の少年』より、この時季の「ふるさと」、「六月」、「海」、「落日」の詩を朗読しました。詩にあわせた即興のチェンバロの演奏がことばの音色を奏でました。
井上靖のことば バックナンバー
井上の詩の朗読テキストとして『シリア沙漠の少年』(銀の鈴社)は現在求め得る唯一の井上靖詩集です。伊豆かかりつけ湯のお宿には「伊豆湯治箱」と銘うった書棚があります。そこに本詩集を供えました。「旅先で詩集を」どうぞ。
かかりつけ湯

第二部の朗読
第二部の朗読は浅野さん(左)、館スタッフの徳山(中)、平沢さん(右)

【J-pop】
参加者の皆さまは「舟唄」、「心の旅」、「いい日旅立ち」をチェンバロで初めて耳にしました。三曲は井上作品に自らの「旅」を重ねて、いく度も読み深める井上フアンのために選曲しました。

「演歌は意外とチェンバロとあっていた」と。チェンバロの音色はことばなのでしょうか。八代亜紀の「舟唄」と井上靖。その縁、それは井上が73歳、1980(昭和55)年、NHKシルクロード取材班との訪中のときのカメラマン大塚清吾さんとの出会いからです。その経緯は「古里だより」で紹介いたします。

あたたかく優しい弦をつま弾く平沢さんのチェンバロの音色を愉しみました。天城に夕刻を告げるメロディー「しろばんばの唄」の演奏でお開きでした。

カシワバアジサイ
館玄関の八重のカシワバアジサイ

次回のチェンバロの演奏はしろばんばの舞うころになるでしょう。

皐月(四)
井上作品朗読チェンバロの調べ

2015/5/30更新

ことばの「音色」饗宴、井上作品朗読チェンバロコンサートを開催いたします。
アジサイ文学館でチェンバロの調べとともに、ひと時をゆったりお過ごしください。

日 時  6月13日(土)13時~14時
会 場  井上靖文学館
演 奏  平沢匡朗(ひらさわ・まさあき)洗足学園音楽大学講師

内 容
【第一部】バロック:バード:パヴァーヌとガイヤルド
ヘンデル: 調子のよい鍛冶屋
バッハ:フランス組曲第5番ト長調BWV816
【第二部】朗読とJ pop:井上靖が敦煌で「いい詞だ」と述べた「舟唄」(作詞:阿久悠)を演奏予定
朗読は、チェンバロにのせた詩、詩集『シリア沙漠の少年』より

定 員  30名(事前にご予約ください)
参 加  500円(入館料をふくむ)

紫陽花

【お問合せ・ご予約】
井上靖文学館 電話055-986-1771 (毎週水曜は休館日です)

皐月(三)
修学旅行の伝統つくる生徒たちの「一歩一観」。

2015/5/21更新

毎年、五月の連休が明けたころに「修学」文学コースを選択した筑波大附属中学3年生をお迎えする。今年は5月12日、40名に先生2名。生徒は伊豆ゆかりの作品、作家を学習、自分なりのテーマで研究をして、一度だけの修学旅行・伊豆文学散歩・3泊の旅の最初に文学館を訪れる。
「修学旅行を始めた」筑波大学附属中学校の先輩たちも、国語科の必読書として1年生で『しろばんば』、2年生で『夏草冬濤』を読んだ。3年生では『北の海』が必読書だ。
本年の文学コースは井上靖2班、川端康成2班、梶井基次郎、若山牧水、太宰治各1班の合計7班の構成だ。
文学コースは「修学旅行」5コース、文学、大井川(お茶)、自然(水質調査)、勤労体験(畜産)、アウトドアのうちの1コースで、7班の生徒40名は文学を選択した。本年度の3年生203名はそれぞれ選択したコースの「修学」をする。

☆ 初日は、文京区大塚にある学校を7:30に出発してバスは本年も一路文学館へ。
文学館に到着して、班毎の発表。「井上靖の妻が与えた影響とは?」、「梶井基次郎の『檸檬』(れもん)の中の色彩は?」など、お互いにテーマを確認しあい、班の交流がはじまる。
つぎは、展示見学。井上を中心として「伊豆のイメージ」づくり。特製のフィールドノートに気付いたこと、感じたことを書く。
10時半には館を出発して下田街道をくだり天城大雨の峠越え。川端康成『伊豆の踊子』の湯ケ野へ。踊り子歩道のウォーキング、福田屋泊。

☆ 二日目は天城晴れ。午前中、湯ヶ島地区歩き。
9時より班ごとに、地図を片手にひたすら生徒は歩く。『しろばんば』、「洪作少年の歩いた道」コースでは、「馬車の停車場ってどこだろう?」、「土蔵跡から富士山が見えた!」・・、若山牧水ゆかりの天城屋さん、地元の方の話をきく。

夕鶴記念館前の伝達
夕鶴記念館前の伝達

旧下田街道四つ辻前の上の家
旧下田街道四つ辻前の上の家

後半は、湯道、「落合楼」、梶井基次郎の道、長野地区の棚田、さくらの里、熊野山、明徳寺…それぞれのコースを歩く。散策先で天城の食材たっぷりのお弁当をして、13時に全員が2年前に閉校になった湯ヶ島小学校玄関にあつまり、そこで班ごとの発表。
午後は、天城中学校3年生58名との「交流会」を体育館で60分。
今回は校歌の合唱を交歓、学校の紹介、班ごとの話しあい、「違うようで同じところがあった」とのこと。今年3月に上演されたミュージカル「しろばんば」の映像鑑賞、そして感想発表。

天城中、交流会
天城中、交流会

交流会のあとは、昭和の森へ。
わさびマイスター・鈴木丑三さんのワサビ田で「天城のわさび」を受講。
その日の宿、湯本館から湯川屋への夜道は「闇の世界」、梶井基次郎『闇の絵巻』を歩く。

☆ 三日目は、沼津にて井上靖『夏草冬濤』の舞台、若山牧水ゆかりの千本浜などを歩き、太宰治『斜陽』執筆の安田屋に泊。
☆ 最終日の四日目は御坂峠の天下茶屋を見学した後、河口湖にてコース発表、帰路へ。

☆ 筑波中の生徒たちは、今年も「自分なりの研究テーマを考え、現地を歩き、地元の方から話を聞く」。筑波中学校の校訓である自治の精神を実践していた。
生徒はノートに書き込み、学校へもどって、研究テーマをまとめる。先輩から引き継いだ「25年の資料編」はその厚みを増してゆく。秋の発表があり後輩へ引き継ぐだろう。
☆ 文学館は2010年に湯ヶ島・西平の川田写真館で「井上靖アルバム」デジタル化作業をした。二万枚以上のカットのなかの被写体の井上はノートに書き込んでいた。「一歩一観」、書いたものだけが残る。そして、正しい。「一期一筆」を教唆していた。

修学した生徒は社会人となり、お子さまと一緒に文学館へ、家族で伊豆へ。修学旅行「文学コース」の伝統は引き継がれ「伊豆文学散歩」へと深まるのだ。(M)

さくらや・『しろばんば』浅井光一の家
さくらや・『しろばんば』浅井光一の家

皐月(二)
薫風に合う「瓊花(けいか)まつり」と塩餡のおはぎ

2015/5/10更新

今年は井上靖生誕108年目の記念の年。『天平の甍』を読み継ぐため、本年より「瓊花(けいか)まつり」(4月25日(土)~5月6日(水))第一回目をはじめました。そのご報告です。

☆当館中庭の植樹二年目の瓊花(けいか)は例年より早く4月中旬から開花がはじまり、4月最後の週には45個すべての花が咲きそろって満開を迎えました。
4月25日(土)、26日(日)には当館館長の松本による「『天平の甍』と瓊花(けいか)の話」を開催。お花好きな参加者の方々は、中国揚州からの「瓊花(けいか)」の淡い甘い香りに、はるか昔の奈良唐時代の唐僧鑑真、遣唐留学生、留学僧、栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)、玄朗(げんろう)、戒融(かいゆう)、業行(ぎょうこう)に想いを馳せていました。

満開の瓊花
満開の瓊花(けいか)

☆4月29日(水)は井上靖(1991/1/29/83歳)の祥月命日です。井上が好きな「塩餡のおはぎ」をお供え、限定販売しました。60個を10時から1時間で完売する人気となりました。この日は天城の岡田さん手作りの「二色山葵羊カン」も一緒にふるまわれました。

塩餡のおはぎ
伊豆市ガットビアンコお手製の塩餡のおはぎ。

☆連休は快晴つづき、たくさんの方々で新緑に包まれたクレマチスの丘はにぎわいました。館となりの新緑の駿河平自然公園には家族連れがお弁当を、散策を楽しまれていました。
5月6日(水)は井上靖108回目の生誕記念日、鑑真大和上遷化の日です。例年5月6日は入館料が無料。本年は「瓊花まつり」にちなみ塩餡のおはぎの実演販売を行いました。
「おはぎ待ち」の方が開館前につめかけ、13時に239個を完売までガットビアンコ店主の梅原さんは手を休める間もなく「いらっしゃいませ~」と、おはぎを丸めました。お茶とおはぎを木漏れ日の庭で楽しむご家族、36名もの子どもたちが「福田豊四郎と井上靖」展にちなんだ福田豊四郎のスケッチ「ぬりえ」を楽しみました。

「ふるさとぬりえ」
「ふるさとぬりえ」に福田豊四郎も夢中?!

爽やかな五月、おはぎ239個を完売し、「瓊花(けいか)まつり」の終幕となりました。

おはぎ作りを実演
「昔ながらのおはぎ作りです」と梅原さん。

のぼり旗
書道家、岩永司明さん楷書の「のぼり旗」

☆碑文「若葉して」
碑は鑑真和上顕彰会により建立。佐賀市嘉瀬町にある県立森林公園の一角で「瓊花(けいか)」につつまれています。井上は記念碑の除幕式に欠席された翌年、1991(平成3)年1月29日に逝去されました。
「瓊花(けいか)」は中国の揚州から佐賀、伊豆・長泉へ。これからも文学館の庭で「大きな花」を咲かせてくれるでしょう。

若葉して
―鑑真和上坐像・讃―

鑑真和上は、日本を目指す苦難にみちた放浪五年の旅の途上、失明されている。日本の土を踏まれてから、朝に夕に、和上の盲いた二つの御眼には、何が映っていたであろうか。旅の途上、相継いで他界した和上の高弟・祥彦の姿も、日本僧栄叡の姿もあったであろうし、和上がその半生を埋められた古都・揚州の風光も、絶えず、その瞼を訪れていたに違いない。
併し、私は思う。鑑真和上の場合、その盲いた瞼に繁く載せておられたものは、やはり、まだ見ぬ日本ではなかったか。法のために、命をかけて、漸くにして、果し得た日本との大文化交流である。大小の行事こそ、華やかに行われておれ、その度にまだ見ぬ日本の山野が、日本の都が、日本の民が、どうして瞼に載らないでいようか。
――“若葉しておん眼の雫ぬぐはばや”
晩年の和上のお姿を写したと伝えられる鑑真和上坐像(国宝)の、どこか悲しそうなお眼のあたりを、日本の若葉でぬぐって差上げたいというのが、この有名な句の作者、芭蕉の心であったのである。
私も亦、この句の心を借りて、毎年五月には、奈良に唐招提寺を訪ね、鑑真和上像の前に立たせて頂くことを念願としている。
一九九〇年七月
井上靖

1990(平成2)年11月8日佐賀市嘉瀬町の県立森林公園内に鑑真和上嘉瀬津上陸を記念して鑑真和上顕彰会により建てられた碑に刻まれた。自筆、末尾に署名あり。井上靖83歳。
新潮社『井上靖全集』第一巻 収録。
☆井上靖の祥月命日「塩餡のおはぎ」は毎月29日前の日曜日10時から30個限定販売します。
販売日は5月24日、6月28日、7月26日、8月23日、9月27日、10月25日、
11月29日、12月20日を予定しています。

皐月(一)

2015/5/2更新

瓊花(けいか)より塩餡のおはぎ?!
今年は瓊花(けいか)の開花が早くはじまりました。
5月6日ころまでは咲いていてほしいのですが・・。
文学館、初夏のお楽しみ ~第一回、「瓊花(けいか)まつり」4月29日から5月6日~ をはじめました。
井上靖108回目の生誕日、没後25年の年にあたり、鑑真和上(がんじんわじょう)と井上の歴史小説『天平の甍(てんぴょうのいらか)』をながく記憶にとどめるためです。
「わがうたはふるさとのうた 福田豊四郎と井上靖」展(8月3日(月)まで)の会期中の催しご案内です。

1.『天平の甍』特別展示は4月25日(土)~5月10日(日)。

2.5月6日(水・祝)は[塩餡のおはぎ](しおあんおはぎ)おはぎ作りを実演します。
文学館で、できたておはぎをお召し上がれます。
5月6日は鑑真遷化の日、井上靖誕生日です。井上靖が愛した昔ながらの「塩餡のおはぎ」供えるものです。
なお、4月29日井上靖の祥月命日は10時開館、30分で完売しました。
伊豆市のガットビアンコお手製の「塩餡のおはぎ」です。

3.[井上靖108回目の生誕記念日]
  5月6日(水・祝)入館料無料

[瓊花(けいか)]レンプクソウ科の植物
鑑真和上遷化1250年にあたる2013年5月に文学館に植樹しました。鑑真ゆかりの中国揚州市の市花です。5月6日は井上靖108回目の生誕日、旧暦の鑑真大和上遷化の日です。

4月29日の文学館
ケイカまつり
ケイカまつり

中庭のケイカ
中庭のケイカ

「塩餡おはぎ」販売
「塩餡おはぎ」販売

卯月(四)
企画展講座の報告

演題「登山家・芳賀孝郎さんがかたる「あした来る人」のモデル・加藤泰安氏」
―「『あした来る人』から『氷壁』へ」展の関連講座―
3月22日(日) pm1:00~2:30
2015/4/27更新

企画展の関連講座は井上との新しい出会いがあって主催者も楽しみなものだ。このたびの講座では「あした来る人 井上靖 加藤泰安」の検索で芳賀孝郎さんの記事に出会った。

1)「先輩・加藤泰安氏(日本山岳会名誉会員)について」 芳賀孝郎氏

2011年はオーストリア・ハンガリー帝国の武官レルヒ少佐によるスキー術が日本に伝授されて100年となり、ノルウエーのアムンゼンが南極点に到達して100年を迎える。そして私の登山と人生の師である加藤泰安氏の生誕100年の年でもある。
 私が泰安さんに最初にお目にかかったのは、大学1年の1954年学習院山桜会の時であった。
第1次マナスル隊へ参加して1年後であった。その会合で「マナスルが登頂出来なかった原因は、日本人であることを忘れた高所用の食料献立にある」と印象深い報告をしたことは忘れない。泰安さんは、集まりの中で一際目立つ長身でスマートな姿で、私は先輩を遠くから見ているだけ、近寄りがたい泰安さんであった。(中略)
私は、泰安さんから登山の指導ばかりでなく、銀座のバーへ人生勉強のため時々連れていってもらった。そこで大人の会話を楽しんでいる泰安さんのようすが面白く、貴重な経験をさせてもらった。あるとき作家の井上 靖と会うので会話を聞いているように云われて銀座へお供した。井上 靖のヒマラヤと登山についての問い合わせに対して、泰安氏はヒマラヤの星は大きくきれいで、その感動を得意げに話された。登山について「山と女房の付き合いについて、山との付き合いの歳月が女房より長く深いので山への比重が大きい。山はライフであり、ホビーではない」との泰安流のユーモア溢れる人生観に井上 靖氏は興味深い表情を示していた。その後も井上 靖氏との会話に同席したことがあった。井上靖の「あした来る人」「氷壁」の文の中に泰安氏の言葉が、随所に文章化されていることを知る体験をした。(以下略)
(平成24年6月発行の「日本山岳会 千葉支部だより」)

2)この記事をきっかけに芳賀さんをお招きすることになるのだが、師走のせわしさが増したころだった。芳賀さんのお住いは札幌だ。千葉支部長のとりはからいにより上京する機会にあわせて講師依頼していただけた。「あした来る人」は絶版。ネットで取り寄せて芳賀さんへ贈る準備をした。検索、購入、メールデータとSNSは“必須ツール”と思った。
加藤泰安著「森林・草原・氷河」(1966年)、「放浪のあしあと」(1971年創文社)、桑原武夫著「チョゴリザ登頂」(1959年文芸春秋新社)などをネット購入した。
年が明けて、大雪の報道があった。「今、ニセコ山で山スキーを滑っていました」芳賀さんは電話にでてくれた。電話でのやり取りは一回のみで、あとはメールだ。

3)講師の芳賀孝郎さんは1958年4月京都大学山岳会チョゴリザ登山隊、隊長桑原武夫、副隊長加藤泰安に参加した。
1934(昭和9)年札幌に生れ、学習院大学山岳部リーダーとして槍・北鎌尾根千丈沢側壁登はん(1956/7)、横尾尾根より槍から西穂への積雪期初走破、北穂北壁と滝谷第二尾根登はん(1957/3)。1958年日本山岳会に入会。その年の4月、隊長桑原武夫、副隊長加藤泰安の京都大学山岳会チョゴリザ登山隊に参加。7200mまでサポート。隊員10名で23歳最年少隊員。学習院チベット登山隊長(1990/4)、日本山岳会副会長(2000/6~2005/5)をつとめられた。
芳賀さんの23年先輩の加藤氏は学習院中等科、高等科を卒業された。

講座資料に芳賀さんは、先ずは「加藤泰安(1911~1981)と井上靖(1907~1991)」対比年表を作成された。そして、日本山岳会入会当時のこと(2002年10月)。加藤泰安先輩の職歴。ご自身の主な登山歴、職歴。当日のレジメなど「登山家」の資料準備なのだとおもえた。
今回、講座会場にビュフェ美術館大展示室を初めて借りるほどの参加者となった。

館風景
館風景

4)長編小説「あした来る人」のモデル加藤泰安氏は「実業家」。
「あした来る人」は大物の人物が四人の男女を見守る展開。義父に「カラコルムへ行きたい」とつげる登山家・大貫克平は加藤泰安氏がモデル。1954(昭和29)年3~11月朝日新聞掲載。

加藤泰安(かとう・たいあん・1911(明治44)年~1983)氏は
ノルウエーの探検家・アムンゼンが人類で初の南極点に到達した同年の12月14日、東京に生まれた。15歳のころより登山をはじめた。学習院中等科、高等科から京都大学経済学部卒業。1953(昭和28)年の第一次マナスル隊参加(42歳、新アジア貿易通信社勤務)。1958(昭和33)年の京大隊チョゴリザ(47歳、東京樹脂工業(株)勤務)、1962(昭和37)年のサルトロ・カンリ(51歳、不二音響(株)代表取締役社長)に副隊長として参加された。

5)学習院山桜会で芳賀さんと加藤氏は出会った。
芳賀さんは学習院山桜会の加藤氏の第一次マナスル隊帰国報告会で初めてであった。加藤氏が芳賀さんを日本山岳会入会、チョゴリザ登山隊員を推薦をされたこと、三田淳子さんとの媒酌人をつとめてもらったことなど・・、加藤氏の登山者(家)人生でのお付き合いを語られた。加藤氏が四国・大洲(現・大洲市(おおず))の殿様の家系であることが判明した時に「私はその後、泰安さんの小姓(こしょう)となりました」と芳賀さんはなされた。

加藤、芳賀
加藤、芳賀
結婚式
結婚式

6)銀座のバーで学生の芳賀さん、加藤氏、井上は出会った。
加藤氏と井上が『あした来る人』について話しあったその場に芳賀さんは同席していた。
泰安さんのお供で銀座のバーへ、「学生の1956(昭和31)年秋ころこと、井上先生には二度お会いしました」とはなされた。
また、「泰安さんはマナスル遠征(1953年)から帰られて、カラコルムの遠征準備中(1955年)に井上先生とお会いしているでしょう」、「井上先生は泰安さんに上手に質問されていた」とも話された。
作品『あした来る人』から作家の質問力を読み明かすたのしみがあるだろう。

7)芳賀さんが読みとった『あした来る人』の泰安先輩の言葉
☆一部『あした来る人』新潮文庫(昭和48年、第20刷版)から補記。

<子犬>
「山へも登りたいでしょう。山登りの費用も随分大変だわ。土曜から日曜にかけて――、毎週ですわ。大体山へ登るって随分ぜいたくな趣味だと思うの」
「趣味ではない─。仕事だ」
「支出ばかりの仕事」
「そうだ。しかし、おれは山に登るために生まれて来たのだから」

<黒い石>(カラコルムとはサンスクリット語で黒い石)
「僕たちの登る山はヒスパーカングリという山です。7400メートルほどの山で、だれもまだ登っていません」
「だれも登らない山へ登るなんて素敵ですわ」
「素敵?」
克平はきき返して、
「素敵というんですかね」
・・
「日本では氷河がないので、雪山で練習しなければならないですが、ポーラー・メソッド(極地法)と言いますが、その課程をやった人でないと―」
それから、克平は話が長くなると思ったのか、自分の分としてビールを注文した。

<初夏>
「君には10年しか付き合っていないが、これで山には20年付き合っているんだからね」
八千代は夫の上着を取りかけたが、それをやめた。これでいよいよ正面衝突だと思った。
「ずいぶんひどいおっしゃり方ね」
八千代は茶の間に、自分だけ坐って言った。
「だって、そうじゃあないか、ほんとの話が。――君と結婚して約10年だろう。山の方は、君、15の時谷川岳に登っている。それ以来のつきあいだ」
克平は言った。なんという憎らしいことを言う夫だろうと、八千代は思った。

彼の性格が持っている相手を突き放すような冷たさを生得のものであるにしても、八千代以外の人間に対しては、彼は別に気難しい男ではない。一面驚くほど、物にこだわらないのんきな面を見せる。

<汗>
曽根は新橋から中野行きのバスに乗ると、新大久保で降りた。
研究所は大通りから二町程はいったところにあった。以前は軍関係の大きな役所のあったところで、広い敷地の中に、鉄筋コンクリートや赤レンガの古く汚れた建物が、幾つかお互いになんの関係もない感じで、ばらばらに置かれてある。資源科学研究所はその一つの建物を占有していた。

<タマリスク>
「タマリスクか、いいな、あれは!丁度今ごろは葉が真黄色になって落ちかかっている!」
「そうだ。ラールピンディに着くと、ポプラの葉が散りかけている。さらに登って、ギルギットに行くと、ポプラは完全に落ちている。そしてタマリスクが落ちかかっている」
三沢が言った。すると克平が、
「ヒマラヤへ行った連中は、タマリスクを見ると、みんな例外なしに感動するよ。ヒマラヤに来たという感じがするからね。ヘディンばかりじゃあないんだ。みんな詩人になっちまう」

<訪問者>
梶はちょっと真面目な顔をして、杏子の顔を見た。
「会わんことはない。いつでも会うよ。先に言っておくが、僕は貧相な男と、卑屈なおどおどした男と、けちな男が嫌いだ。・・・」

8)『氷壁』1956(昭和31)年11~翌年8月朝日新聞掲載。の中で、泰安先輩の言葉の引用。
主人公・魚津の会社の上司である新東和商事の常盤大作にも引用がある。

「自制できないのが人間」
「人間の価値は棺を蓋う時に決まる」などは、ウインスロープ・ヤングの言葉を加藤氏がよく使っていたのです。

9)今回の講座は『あした来る人』と『氷壁』の作中人物、そのモデルについてうかがう貴重な機会となった。
講座には群馬県、千葉県から山を愛する方々が参加され、加藤泰安さんにまつわるお話、その思い出も発表された。井上靖からの「私信」披露もあった。
加藤家の墓地は、「カトリック府中納骨堂」は府中市新町2丁目にあり、その写真を手に「墓参」を呼びかけた山の人もいた。
戦前から戦後の暗い時期に、登山(者)家たちが国内の登山、そして海外へと遠征した。「大きな希望」を届けてくれたのだ。山が好きな人たちならではの愉快な「集い」だ。また、この4月に日本を出発してエベレストへ、二回目の挑戦される登山家の「壮行会」にもなった。

カラコルムの村
カラコルムの村

10)京大隊チョゴリザ副隊長、加藤泰安から井上靖へのエアメール。
京都大学学士山岳会は、1958年の夏、カラコルムの処女峰、チョゴリザ(7654メートル)に遠征隊をおくり、8月4日、その登頂に成功した。

前略 出発前は御厚情ありがとう御座いました。
我々10名、カメラマン、通訳、エゾンオフィサー各1名、計13名の隊は250名のクーリー、9名の高所ポーターをつれ6月21日スカルドを出発、昨7月2日バルトル氷河中の露営地ウルドカスにつきました。
カラチ、ラワルピンディの暑さは物凄く毎日45度、危うく乾物になるところでした。ラワルピンディースカルド間は飛行機が飛びましたが機は有名なナンガバルバット(8,125)の横腹すれゝに飛びます。一同大興奮、小生なんかも勿論ですがそれより、連なるパンジャブヒマラヤの6千級の山々に広く静かに入り込んでいる緑深い谷々や峠に深くひかれるものがありました。
何時の日かこの谷々や峠を気の合った数人とはるかに超えられたらどんなにか楽しい事かとあかづに眺めました、勿論そのメンバーの中には一人の美しい婦人がいることが必要です。(略)
(神奈川近代文学館所蔵)

井上へのエアメール
井上へのエアメール
井上へのエアメール

私信、古文書にあたる心得として「その読みの程度はその回数」と教えていただいた。エアメールから登山者、加藤泰安さんの厳しさと優しさが伝わってくる。

11)福岡より参加された『氷壁』魚津のモデル石原國利さんは・・。
「『あした来る人』の梶大助は『氷壁』の常盤大作へつながっていますね。また、加藤泰安さんと知りあったことで、井上先生は登山家のことを好意的におもわれていたのではないでしょうか。『氷壁』は『あした来る人』からはじまっていたのですね」と話された。
はじめて芳賀さんと石原さんはお会いできて喜ばれた。
伊豆の温泉宿で、芳賀さん、石原さん、山の方々はその日の懇親をふかめた。

12)井上靖は加藤泰安著「森林・草原・氷河」(1966年)」に寄せた「加藤泰安氏のこと」

 加藤泰安氏には『あした来る人』という小説の主人公のモデルになって戴いたことがある。〝君とはまだ15年のつきあいだが、山とは30年のつきあいだからな〝という、主人公の奥さんに対する名台詞は、加藤氏が考えて下さったものである。こうした台詞を考えることに於いては、氏は天才である。
(略)
知性とか教養とかいう言葉は、氏が厭がるに違いないので、そうした言い方を避けると、氏は日本が持っている数少ない近代的登山家の一人であると言っていいと思う。しかも、その第一人者である。
こんど上梓された氏の著書は、いかに氏が本当の意味での近代的登山家であるかを、物語るものである。夢と、情熱と、そしてまた、優れた登山家の持つ、反対の醒めたものが、この書物のどのページにも顔を出している。

「静岡県にも井上靖文学館のような山と関係が深い施設があったのだ」との礼状をいただいた。施設は活用の仕方なのだろう。
芳賀さんの講義は「山びと」、「氷壁」ファンに山のことをよみがえらせてくれた。
井上靖、加藤泰安にまつわる先人達はすでにいない。その時に「出会った方々」に語っていただく機会をもつことからその作品は読み継がれるのだろう。(M)

卯月(三)
1947(昭和22)年の子どもたちへ、詩「出発」、今も

2015/4/25更新

出発

井上 靖(いのうえ やすし)

ぼくは
マラソン競争で
白いスタート・ラインにならぶ時が好きだ。
かるく腰(こし)をうかせ
きっと遠い前方の山をうかがう
あの瞬間(しゅんかん)のぴんと張った気持(きもち)が好きだ。
やがて笛は鳴りひびくだろう。
ぼくたちはかけ出す。
校庭を一周し、町をぬけ、村を通り、おかをこえる。
友をぬいたり
友にぬかれたりする。
みなぎってくる
いろいろの思いをしずかにおさえて
友と友の間にはさまれて
先生の笛の合図をまっている
あのふしぎにしずかで、ゆたかな、出発の時が好きだ。

1947(昭和22)年1月1日、『少國民新聞』(毎日新聞大阪本社)発表。井上靖40歳。
井上作品が教科書に掲載されなくなって10年たった本年、詩「出発」が6年生の教科書「国語 上」の巻頭に載りました(学校図書株式会社発行)。ルビは「教科書」によります。
井上靖、戦後からの「出発」は子供たちへ。「校庭を一周し、町をぬけ、村を通り、おかをこえる。」かけがえのない「出発」は70年後の今、おとなの詩なのでしょう。(M)

教科書
教科書

卯月(二)
「わがうたはふるさとのうた 福田豊四郎」

2015/4/25更新

「わがうたはふるさとのうた 福田豊四郎と井上靖」展(7月27日(月)まで)のみどころ、日本画家・福田豊四郎を紹介いたします。

福田豊四郎(1904~1970)は、戦後、日本画の革新を目指した画家。14歳のとき秋田県立大館中学校を中退し、画家を志望して京都にでる。18歳のとき東京に移り川端龍子に師事。19歳で京都に移り、土田麦僊(ばくせん)らに師事。24歳、京都絵画専門学校選科卒業。
終生、ふるさと秋田を描きつづけました。本展の見どころ三点です。
一・出会い
井上が毎日新聞大阪本社記者時代に中堅・福田の美術団体「創造美術旗揚げ」をスクープ。井上記者の唯一のスクープから「若き日」の二人の交流ははじまりました。
【「創造美術旗揚げ」1948(昭和23)年。今年は二十世紀後半へ発足する年だ。東洋的有限とか、わび、さび、とかいわゆる日本的精神的支柱として、従来の日本画を、あの薄暗い凹所へ祭り込んで仕舞った。我々はもう一度日本画を明るい現実へ解放して、時代と共に生きる芸術として過去の単なる日本画と云うローカルな存在から、世界性を持った絵画としての生命を与えたいと念願している。(略)(「日本画の近代」・わがうたはふるさとのうた豊田豊四郎)
同年「秋田のマリヤ」(第一回創造美術展出品)・・今回、下絵を展示】

秋田のマリヤ
「秋田のマリヤ」

二・西域へ 
福田は1956(昭和31)年、アジア連帯文化使節の一員として、戦後初めて敦煌を訪れた日本人のひとり。日中国交正常化以前の中国へ、さらに敦煌を訪れることはたいへん困難な時代でした。
井上靖が訪れたことがない『敦煌』執筆の際には福田の描いた中国、写真、資料など協力を得ました。

敦煌壁画
「敦煌壁画」

三・挿絵の世界
福田は、『あした来る人』、『天平の甍』、『崖』、『楊貴妃伝』、『海峡』の五作品の挿絵を手掛けました。本展では、『あした来る人』挿絵をはじめ、『海峡』、『崖』の執筆資料を展示します。

「海峡」取材旅行
「海峡」取材旅行

◆初公開の作品「池」、福田が井上に宛てた手紙5通など、約50点を展示。
「ぬりえコーナー」では、ぜひ、あなたの「ふるさと」を描いてみてください。

卯月(一)
文学館、初夏のお楽しみ ~第一回、「瓊花(けいか)まつり」4月29日・5月6日 ~
「鑑真和上、井上靖、瓊花の花より[塩餡のおはぎ]は知られていないでしょう!」

2015/4/25更新

本年は井上靖108回目の生誕日、没後25年の年にあたり、鑑真和上(がんじんわじょう)と『天平の甍』を記憶にとどめるべく4月29日・5月6日に第一回、「瓊花(けいか)まつり」をいたします。
鑑真ゆかりの花咲く瓊花、[塩餡(しおあん)のおはぎ]で皆さまをお迎えします。
「わがうたはふるさとのうた 福田豊四郎と井上靖」展(7月27日(月)まで)の会期中の催しご案内です。

1.[文学展講座・四]「『天平の甍』と瓊花のお話」。
講師・松本亮三(当館館長)
4月25日(土)・26(日)13時~13時30分
申込不要・文学館の入り口にお集まりください。
館内に4月25日(土)~5月10日(日)『天平の甍』特別ミニ展示いたします。

2.[塩餡のおはぎ] を2日間の限定販売
4月29日・5月6日(水・祝)
29日は井上靖の祥月命日。5月6日は鑑真遷化の日、井上靖誕生日にちなみ
昔ながらの「塩餡のおはぎ」をゆかりの日に供えます。井上靖が愛しました。
伊豆市のガットビアンコお手製の「塩餡のおはぎ」を限定販売いたします

3.[井上靖108回目の生誕記念日]
  5月6日(水・祝)入館料無料

瓊花
今年は瓊花(けいか)の開花は早く始まりました。5月6日までは咲いていてほしいですが・・。

[瓊花(けいか)]
鑑真和上遷化1250年にあたる2013年5月に文学館に植樹しました。鑑真ゆかりの中国揚州市の市花です。5月6日は井上靖108回目の生誕日、旧暦の鑑真遷化の日。
  

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