井上靖のことば

遺したいことば


   井上靖のことば、詩などの作品を紹介します。
2017.3.3更新


「明方」



新しいインキ壜の蓋を開けると、ブルー・ブラックの深海がある。太平洋もインド洋も、これに較べると何と小さいことか。私は大脳の手術をする医師のように、清潔な白衣を着、手を消毒薬で洗い、深海の一部を切りとって、小さい円筒形の器物の中に収める作業に取りかかる。
深海には新しい海流が流れ始める。鯨の群れと、無数の烏賊と、同じく無数の翔び魚が、S運河を抜け、K海岸へと殺到して行く。やがて、ごうごうたる音を立てて潮は渦を巻き始める。水位の低くなりつつある海を、国籍不明の艦船が走っている。
もうすぐ夜は明けるだろう。






「明方」
1962(昭和37)年10月、『風景』へ発表。井上靖55歳。
詩集『地中海』同年12月、新潮社へ収録。