井上靖のことば

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夕暮の富士(その一/三)

 
2013.8.6更新
1937(昭和12)年7月、日中戦争勃発により大阪毎日新聞社社員の井上は30歳の二等兵として北支に渡ります。そこで下士官、兵士の二人の人物に「出会」います。

  昭和十二年九月の初めに召集された私は、すぐ大陸に運ばれ、釜山(ふざん)から輸送列車に乗って、半島を北上、満州を横切り、十月一日に北支の台中に到着し、そこで久しぶりで大地の上に降り立った。
 京漢線に沿って南下して行く行軍の始まったのは十月七日であった。部隊は輜重(しちょう)隊で、兵隊たちは馬を持ったが、私は予備卒として銃を持たされた。階級は二等兵、兵種は輜重兵特務兵、最下級の兵隊だった。昭和三年と七年に二回召集され、二回とも短期ではあったが静岡の歩兵聯隊で訓練を受けていたので、そういうことから銃を持つ方に廻されたのである。しかし、銃の取扱いは全く知らないと言ってよかったし、一日中重い銃を肩にして行軍するより、馬といっしょに苦労する方が有難かったが、一度そう決められてしまうと、どうすることもできなかった。七日は良郷、八日は瑠璃河鎮、九日は松林店、十日は北河店、十一日は平家営、十二日は保定といった具合に露営を重ねて南下して行った。永定河を渡ったのは九日である。
 十三日は九時に保定の城外を発(た)って、黄塵(こうじん)の中を南下、もうすぐその日の宿営地新村に着くという時になって、私は自分が肩にしていた銃から遊底が脱け落ちていることを発見した。遊底というのは銃の一番大切な部分で、これがなかったら銃は使いものにならなかった。いつどうしてそんなものが脱け落ちるようなことになったか不審だったが、遊底がなくなっているということは、歴(れっき)とした事実であった。
 私は連日の行軍でひどく疲れており、余分には一足も歩くのは嫌だったが、万已(ばんや)むをえず、一時間ほど前に小休止した綿畑まで引返してみることにした。部隊を離れて一人で行動することは危険であったが、さいわいなことに、その日は殆(ほとん)ど断ち切れることなく他の歩兵部隊が南下していた。私は漸く薄暮が迫ろうとしている街道を、果しなく続いている歩兵部隊の流れに遡行(そこう)して、ひどく惨(みじ)めな気持で歩いて行った。
 漸くにして自分たちが小休止した場所に行き着いたが、そこには靴で荒された綿畑が拡っているだけで、小さい鋼鉄の器具がどこに転っているか判ろう筈のものではなかった。途方にくれている時、私はふいに、お前何をしているんだ、という声をかけられた。いま南下しつつある歩兵部隊の下士官であった。四十歳ぐらいの、長身の兵隊であった。私は一応事情を説明した。すると相手は、ばかなことをしたものだな、一体どの辺りで落したんだと、私の顔を見守った。それが判らないんです、と私は答えた。では、どうしようもないではないか、ばか者! 下士官はきつい口調でたしなめながらも、私の遊底探しに協力してくれた。その間も、彼の属している南下部隊は、幾(いく)集団かに分れて続いていた。重い装具をつけ兵隊たちは歩くだけが必死で、誰も私たちの方は見向きもしなかった。そしてその暗く重い集団の流れが全くなくなった時、私たちは遊底探しを打切って、急に気温の落ちた平原の中の道を、それぞれ自分の部隊に合流するために歩き出した。
 この親切な下士官といっしょに歩いた暮方の河北平原の一時間ほどのことは今何も憶(おぼ)えていない。私は思いがけず起った厄介な事件の渦中に身を置いていたが、そうした立場にある不安な思いより、ひどく親切な暖い気持を持った下士官といっしょに歩いている心の温(ぬく)もりの方が、今の私には残っている。応召以来初めて暖い人の心に触れた思いであった。
 私は自分の部隊が宿営している新村という小さい集落で、その下士官と別れた。彼は彼自身の部隊を追って、更にその先きへと歩いて行った。(つづく)

一九七四(昭和四十九)年一月「オール讀物」
『新年特別随筆』として発表 井上靖67歳
新潮社「井上靖全集二十三巻」収録

夕暮の富士(そのニ/三)

2013.8.9更新
1937(昭和12)年7月、日中戦争勃発により大阪毎日新聞社社員の井上は30歳の二等兵として北支に渡ります。そこで下士官、兵士の二人の人物に「出会」います。

 遊底紛失事件は野戦のこととて、さして問題にならず収まって、私は別の完全な銃を支給された。私は間もなく本部詰めになり、銃を持つ役目から解放され、本部の使役のない時は、馬を持った兵隊と兵隊との間にはさまって歩いた。時には兵隊に替って、馬を持たせて貰った。一人で歩くより大きな生きものといっしょに歩く方がらくだった。
 遊底紛失事件の翌十四日は望都鎮、十五日は定県、十六日は馬頭鎮、十七日は正定、十八日は滹沱(こだ)川を渡り、満月近い月光を踏んで石家荘にはいった。そして石家荘にはいって初めて三日間の休養をとることができた。二十二日には再び行軍開始、こんどは北行して再び正定にはいり、二十三日に、東常寿に移って、そこに三日駐屯(ちゅうとん)、二十六日に再び南下の行軍を開始、その日は十里舗、二十七日は欒城、二十八日は元氏、――元氏にはいった時、私の手も、足も、顔も、風船のように膨(ふく)らんでいた。鏡で見る顔は自分の顔ではなかった。仕合せなことに、私たちは元氏という河北平原の小集落で二十日間駐屯することになった。この間に、平原の上を毎日のように渡り鳥の大群が横切り、その群れが見えなくなると、冬がやって来た。私は元氏に駐屯中殆ど一日中民家の土間にアンペラを敷いて、その上に身を横たえていた。神経性の脚気らしかった。
 元氏から順徳に向けての進発命令が降(くだ)ったのは十一月十九日、この日北支には最初の雪が降って、見晴るかす平原は一夜で真白になっていた。  この日、私は雪の平原を南下して行く部隊と別れて、石家荘の野戦病院に後送されるために、集落からはかなり離れたところにある元氏の小さい駅に残された。元氏の駅には二人の歩兵が居た。正午頃、雪の平原のどこかで銃声が聞え、敵襲騒ぎがあったが、二人の兵隊たちは動じなかった。不敵であったわけではない。二人だけではいくらじたばたしても始まらなかったのだ。私は一日中、駅のアンペラの上に横たわって、大きい息遣(いきづか)いをしていた。ストーブはあったが、寒気は四方から立ち上がって来ていた。私は一刻も早く病院に入らぬ限りは死んでしまうだろうと思った。そんな不安な思いの中に何時間か過した。
 正午頃北上する列車が来ることになっていたが、雪のために遅れ、それがやって来たのは夜半であった。前線からの負傷兵を満載した無蓋貨車だった。兵隊は殆どホームにも降り立たなかった。私には亡霊の列車のように見えた。
 私はそれに乗り込むために、半ば駅の兵隊に抱かれるようにして、次々に車輛の前に立ったが、どこでも乗せて貰えなかった。駅の兵隊が貨車の上の兵隊に交渉してくれたが、どこでも受付けられなかった。実際に負傷兵が詰め込まれている車輛には、新入りがはいりこむ余地はなかったのである。  私は十輛ほどつながっている車輛をひと通り廻って、いかに乗り込むことが至難の業(わざ)であるかを思い知らされた。しかし、私としてはどんなことをしても乗り込まないわけには行かなかった。強引に乗り込もうとして車輛のどこかにしがみつくと、その度に上からいっせいに怒声が降って来た。しかし、私は攀(よ)じ上る努力を棄てなかった。この駅に置かれたら死んでしまうと思ったからである。
 そんなことをくり返して、一番後部の車輛にしがみついている時、仕様がないな、よし、乗れ! そういう声といっしょに、私の手は一人の兵隊の手に摑(つか)まれ、上に引きあげられた。私は罵声と怒声を浴びながら夢中で貨車に這い上がり、負傷兵の横たわっている中に頭からのめり込んだ。
 乗るまでは烈しい怒声を浴びていたが、いったん乗り込んでしまうと怒声は収まり、あとは負傷兵たちの苦しそうな唸(うな)り声だけが辺りを占めた。私は自分の急場を救ってくれた殆ど信じられぬような親切な兵隊が、いかなる兵隊か知らなかった。真暗な無蓋貨車の上にはひっきりなしに雪が落ちていて、兵隊たちはそれぞれが自分を寒気から守ることに夢中だった。私は頭から外套(がいとう)をかぶり、負傷兵たちの横たわっている間に中腰の姿勢をとっていた。そしてそれに疲れると立ち上がり、忽ちにして寒風に震えあがって、すぐまた中腰の姿勢をとらざるを得なかった。自分を救ってくれた兵隊はどこかそこらに居るに違いなかったが、いかなる兵隊か確かめることもできず、言葉をかけることもできなかった。暁方、まだ暗いうちに列車は石家荘に着いた。私はついに自分を救ってくれた兵隊がどんな顔をした兵隊か知らないままに、その兵隊と別れた。(つづく)

一九七四(昭和四十九)年一月「オール讀物」
『新年特別随筆』として発表 井上靖67歳
新潮社「井上靖全集二十三巻」収録

夕暮の富士(その三/三)

2013.8.13更新
1938(昭和13)年に井上は脚気で野戦病院に収容されて内地送還、招集解除されます。そして大阪毎日新聞社学芸部に復帰、勤務します。1945(昭和20)年に学芸欄はなくなり社会部勤務の38歳で毎日新聞社「玉音ラジオに拝して」を執筆。その後「猟銃」ほかを執筆、1950(昭和25)年43歳で第22回芥川賞を「闘牛」で受賞、翌年退社します。

 昭和二十六、七年の頃であろうか。私はある婦人雑誌の投稿歌の欄で、一席か二席に選ばれていた
  〝命ありて帰還の途次に仰ぎたる、 あわれ夕暮の富士を忘れず″
という歌を読んだことがあった。なぜかその歌を今でも忘れないで憶えている。それが掲載されてあった婦人雑誌名も憶えていなければ、選者も、その投稿歌人の名も憶えていない。それなのに、この歌を今だに忘れないで憶えているということは、この歌が初めてそれを眼にした私の心を強く打ち、それ以後も、この歌を思い出す度に私の心を強く打って来るということであろう。古来富士を歌った名歌は数えきれないほどたくさんあるに違いないが、これはこれですばらしい歌だと思う。
 この歌がいかなる婦人雑誌に載り、作者がいかなる名前の人であるかは、その気になれば、それを知ることはさして難事ではないに違いない。婦人雑誌の数も限られているし、何冊かの婦人雑誌の昭和二十五、六年前後の短歌欄をくって行けばいい。しかし、そうしないのは、この帰還兵士の歌を、昭和の読人(よみびと)知らずの歌として、そのまま私の心の中にしまっておく方がよさそうに思うからである。この歌については、一、二回地方新聞などに優れた富士の歌として紹介したことがあり、その度にあるいは作者は名乗って出るのではないかと思われたが、そうしたこともなく、歌人でない私の数少い愛誦歌(あいしょうか)の中で依然として読人知らずの歌としての席を保ち続けている。
 この無名の帰還兵士の歌に感動してから、いつか今日までに二十年の歳月が経っている。最近では、私の心の中で、北支において私に親切であった二人の兵隊と、この歌の作者とは、何となくいっしょになってしまっている。私の遊底探しに協力してくれた下士官も、元氏の駅で私を貨車の上に引揚げてくれた兵隊も、そして命あって故国に帰還することができ、夕暮の富士に帰郷の無量の感慨を託した兵隊も、私の心の中では同一の人物になってしまっている。
 北支の二人の兵隊については、何年か前に 〝忘れ得ぬ人″というような題で、忘れ得ぬ十何人かの人たちの中に登場して貰って短い文章に綴(つづ)ったことがある。どのような文章を綴ったかは、今は忘れてしまっている。去年の夏、当時の野戦の日記が郷里の家から出て来たので、こんどそれによってこの小文を綴った。昭和十二年は私の三十歳の時である。三十歳の秋、私は初めて味わった異国の短い野戦生活において、一生忘れることのできない二人の人物に出会ったのであり、それから更に十数年経って、やはり一生忘れることのできない歌を私に示してくれた兵隊歌人に出会ったのである。勿論三人が同一人物であろう筈はない、しかし、同一人物であるといういつ生れたとも判らぬ私の心の中の勝手な想定は、私にはふしぎな安定感をもって感じられる。そうした思いに触れた時、心は明るく、ゆたかにふくらんで来る。先年招かれて中国に行った時、武漢から北京へ向かう列車が、昔の京漢線にはいったので、私は自分が歩きに歩いた平原の風景を無心では眺めることはできなかった。秋で、平原は同じ平原とは思われぬほど豊かに稔っていた。私は思った。この大平原の中のどこかの一角で、曾て私は二人の兵隊によって殆ど信じられぬような暖い心を示されたのだ、と。

一九七四(昭和四十九)年一月「オール讀物」
『新年特別随筆』として発表 井上靖67歳
新潮社「井上靖全集二十三巻」収録


1937(昭和12)年の井上「野戦の日記手帳」が公開された2010年に企画展「ふるさとの想い、帰還~特務兵・井上靖、湯ヶ島から出征した人々の記」展を開催しました。それから3年。特別な富士の2013年ゆえに井上の「夕暮れの富士」は読み継がれる時にあるのでしょう。〝井上靖の忘れ得ぬ人″作として帰還兵の歌が「富士山万葉集」に載らないまでも多くのひとの心に遺るでしょう。
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