井上靖のことば

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「立春」

2014.2.10更新

雪が降った日から七日経っている。庭の陽かげに
いつまでも残っていた雪も、最後はしゃぼんの泡の
ようなものになって、今日の午後消えてしまった。
そしてそのあとの湿った黒い土の上に、静かな冬の
陽が落ちている。

雪の降った日にふいに私のところにやってきたある
烈しい思いも、少しずつ形を変えて今日まで心の
片隅に残っていたが、最後はやはりしゃぼんの泡の
ようなものになって、静かな冬の陽がどこかに持って
行ってしまった。

雪が消えるように思いも消え、思いが消えるように
雪も消えた。天地の間には百数十時間という刻(とき)
が過 ぎ、それを七つに割った安佚(あんいつ)な明暮が、
私の内部においては繰返されたのだ。暦は立春を
伝えている。

一九七一(昭和46)年3月発行の『風景』に発表。井上靖64歳。
詩集『季節』一九七一(昭和46)年11月、講談社 収録。

「梅咲く頃」

2014.2.10更新

世の中には幸と不幸とどちらが多いでしょうか、と
その人は訊いた。大体平衡を保っていると思います
よ、同じ数ではないですかと、私は答えた。いや、
とその人はかむりを振って、どちらかが少しだけ
多いんです、その証拠に今年もまた梅の花が咲いた
ではありませんか、と言った。確かに庭の梅の木は
二、三日前から白い花を着け始めている。世の中に
ちらばっている幸、不幸の平衡が破れたとすれば──、
と私は思った。それはその訪問者の持つ不幸が原因
しているに違いなかったが、それには触れなかった。
相手もまた黙っていた。その人の方は、それは紛れ
もなく私の匿し持っている不幸のなせる業だと信じ、
その摘発のための訪問であったかも知れない。

一九七五(昭和50)年4月『風景』に発表。原題「梅ひらく」。井上靖68歳。
詩集『遠征路』一九七六(昭和51)年10月、集英社 収録。

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