井上靖のことば

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「初春の感傷」

2014.4.1更新

ちんころの花の中をのぞくと
遥に、白くてちいちやい故里の風景が見える。
故里と私との間の悠久の時の流れの様に、
花蘂は真直ぐに、こちらに伸びてゐる。
そしてなだらかな花弁の傾斜は、
夢の殿堂の様に、はるかに遠い故里を偲ばせる

素朴なちんころの花の香は
故里の山村を漾々と流れてゐる春蚕(はるご)の香の様に、
つゝましく私の心の中に偲び込む。

美しいちんころの覗き眼鏡よ。
あの路傍の古い石垣の間に、
あの小川の土手の赤い椿の花の蜜に
私は私のなきがらの骨を拾ふ。


未収録詩編
一九二九(昭和4)年5月「焔」五月号掲載。筆名・井上泰。井上22歳。焔デビュー作。

一九二九(昭和4)年5月、四高時代二回目に参加した詩の同人誌「焔」最初の発表作。金沢で、故郷湯ヶ島にも咲く花と出会い生まれた詩。花の〈覗き眼鏡〉を媒体に故郷との距離感や心象風景、そして心の屈折を、美しくしかも客観的に描き出した。〈ちんころ〉はねこ柳のこと。昔は狩野川河畔に多く自生していた。(福田美鈴・福田正夫詩の会代表)


「驚異」

2014.4.1更新

つぼみ
ふくらみかゝつた乳ぶさはつぼみ。

ゆあみせる盲ひの少女よ
じーつと 全身を聴覚器にして
あゝ 何の物音を聞かうとするのか。

死のやうに厳粛なそのポーズの中に
おゝ 何と聰美に息づいてゐる二つのつぼみだ。

        ―湯ヶ島温泉の共同湯にて
          村の哀れな盲目の少女と遇ふ―


一九二九(昭和4)年11月「北冠」第一号掲載。筆名・井上泰。井上22歳。
『春を呼ぶな』一九八九(平成元)年11月、福田正夫詩の会 収録。

一九二九(昭和四)年十一月「北冠」創刊号に発表した作品。ところが一九三〇(昭和5)年、「高岡新報」5月24日号に〈一つの出発〉の題で投稿発表され、五四行に広げてある、と言うより後者が原形だろう。整理し過ぎて不満足だったか。この詩は更に四二行に整理改作、「焔」同年7月号に再録。村内の盲目の少女の成長に対する驚きと祝福を、若者らしく率直に純に表現した。その表現法に捕われたとも言える。 (福田美鈴・福田正夫詩の会代表)

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