井上靖のことば

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「石英の音」

2014.10.5更新

―カチリ
  石英の音
  秋

中学三年の時、友人からこういう自作の詩を見せられたことがある。それから六十余年、私はついにこの詩から自由になれないでいる。秋になると、どこからか石英の触れ合う音が聞えてくる。その友はとうに他界したが、秋になると、両手に石英の欠片を持って、どこからか現われてくる。

一九八四(昭和59)年1月1日発行『すばる』新年特大号に発表。
詩集『シリア沙漠の少年』、一九八五(昭和60)年8月、教育出版センター収録。


「夜光虫」

2014.10.5更新

泳ぎ疲れて暗い夜の海から出て来ると、夜光虫が光った。光の簾(すだれ)でも覆(かぶ)っているように、光が身体を伝わって、ぼたぼた落ちた。

ただこれだけのことだが、それから何十年経った今も、私の記憶から消えない。少し執拗と思われるくらい屢々(しばしば)思い出されて来る。私の生涯で、最も充実した形で、無為と憂鬱が一つのことを為しとげた時であったからであろう。私は光の滴に包まれて渚に立っていたのだ。この夜の渚の私には、紛れもない青春の落款が捺(お)されてある。


一九六八(昭和43)年3月1日の『風景』3月号に発表。
詩集『シリア沙漠の少年』、一九八五(昭和60)年8月、教育出版センター収録。
同詩集を28年ぶりに二〇一三(平成25)年8月、銀の鈴社が復刊。当館でも販売中。

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