井上靖のことば

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2015.7.4更新


「瞳」

七歳ごろであったろうか。明るい春の、風の強い日、私は誰かに背後から抱いて貰って、庭の隅の古井戸を覗き込んだことがある。苔むした古い石組と生い茂った羊歯(しだ)、ひやりとする冷たい空気、地上から落ち込んだその方形の空洞の底には、動かぬ水が銹びた鏡のように置かれてあった。思うに、私の生涯に大きい関係をもつ何ものかが、初めて私の軀(からだ)の中に這入り込んできたのはその時であった。

井上靖40歳。抜粋、一九四七(昭和22)年11月、神戸市クラルテ文学会『クラルテ』第4号に発表。詩集『北国』昭和33年3月、東京創元社。


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