井上靖のことば

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2015.8.9更新


「夏」

四季で一番好きなのは夏だ。夏の一日で一番好きな
のは昼下りの一刻(ひととき)――、あの風の死んだ、
もの憂い、しんとした真昼のうしみつ刻だ。

そうした時刻幼い頃の私はいつも土蔵の窓際で、祖
母ととうもろこしを食べていた。小学校に通ってい
る頃は毎日、インキ壺のような谷川の淵に身を躍ら
せて、その時刻を過した。学生の頃は、校庭の樹蔭で、
書物で顔を覆って、爽やかな青春の眠りを眠った。

そうしたこの世ならぬ贅沢なすべては遠く去り、今
の私にはもはや土蔵も、谷川の淵も、校庭の樹蔭も
ない。真夏の昼下がりの一刻、私は書斎の縁側の籐
椅子に倚って、遠い風景を追い求めている。烈日に
燃えた漠地の一画、遠くに何本かの龍巻の柱が立ち、
更にその向うを、静かに駱駝の隊列が横切っている。

そうした旅への烈しい思いだけが、風の死んだ、も
の憂い、しんとした真昼のうしみつ刻の中に、私を
落着かせる。私を生き生きとさせる。


一九七五(昭和50)年7月『サンケイ新聞』夕刊の駿河銀行広告欄に発表。
井上靖68歳。詩集『遠征路』一九七六(昭和51)年10月、集英社 収録。


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