2015.9.5更新
「元氏(げんし)」
河北省南西部の元氏という小さい部落でわれわれは
崩れかかった城壁の上にせっせと土嚢(どのう)を
積んだ。やがて何時間か後には行われるであろう敵
襲に備えて、おのおの自分の前の砦を補強するため
に忙しい日没の一刻を過していたのだ。その時の不
思議に静かな薄暮の訪れを、初冬の平和な村々の茂
りを、遠く地平のあたりを南下して行った鳥の大群
を、そして遥か西方の山裾にしきりに打揚げられる
烽火の煙を、あるいは又その時われわれ三人が交し
たひどく屈託のない会話を、それら一切をいま思い
出すことのできるのは私ひとりである。右の友も左
の友も、その翌日からはこの世にいないのだ。あの
夜にはいったい何が行われたと言うのか。激戦――
そんな濁った騒がしいものは微塵(みじん)も起り
はしなかった。運命の序列、そうだ、われわれが持
っていてしかも知らない己が運命の序列を、仮借(かしゃく)
なくつきつけて見せるひどく冷たいものが、あの夜
の闇の中を静かに、だが縦横に走っていたのだ。そ
して硫酸のような雨が音もなく、併(しか)しこや
みなくわれわれの精神の上に降り注いでいたのだ。
1947(昭和22)年7月、新大阪新聞社『働く人の詩』へ発表、井上靖40歳。
詩集『北国』、一九五八(昭和33)年3月、東京創元社。
詩集『シリア沙漠の少年』、一九八五(昭和60)年8月、教育出版センター 収録。
同詩集を28年ぶりに2013(平成25)年8月、銀の鈴社が復刊。当館でも販売中。

中国行軍日記
「中国行軍日記」1937(昭和12)年10月28日(木)より抜粋
「元氏に向つて行軍、四時起床、六時出発。昨夜半、少し胃が痛んだので朝食を控目にする。昨日、一昨日の強行軍にさすがに疲れてゐる。相変らず車輪をみつめ湯ヶ島のことを考へて歩く。小雨、寒し、寒いけれど汗びつしより。最後尾だけに凄い強行軍、殆ど半分はかけ足。豆はできてゐないが足が重くて上らぬ、内地ではたれもこんな苦労を想像してゐないだろー。あゝ宿無し部隊は嫌になつた。」