井上靖のことば

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2015.10.9更新


「老兵」

石家荘を出てから二日目か三日目の夕方だった。私は例によってその時も半落後兵の数人の兵隊といっしょに、綿畑の中を重い足をひきずっていたが、ふと肩にしている銃を見ると、ユウテイが紛失している。休憩してから時間があまり立っていないので、紛失してから余り歩いていないことは明らかである。しかし綿畑の中で小さい紛失物を発見することは先ず絶望であった。
が、私は一人きりで一時間程綿畑の中を歩き回った。その時反対に南下して行く他部隊とすれ違ったが、その部隊の老伍長が、私に同情して、部隊から離れて一緒になって探してくれた。「こんな事で銃殺になったらやりきれんからな」
そのボクトツそうな老兵は何回もそう言った。実際そう思い込んでいる風だった。
が、結局ユウテイは発見されず、その老兵は気の毒そうな顔をして、やがて夕やみの綿畑の中を自分の部隊を追いかけて行った。
その老兵の無類の親切さと、その時の銃殺と言う言葉と、そのボクトツな表情を私は今でも忘れない。
もちろん、頭を二つ三つぶんなぐられただけで、私は銃殺にはならなかった。


1952(昭和27)年8月22日、『朝日新聞』「忘れられない人」欄へ発表、井上靖45歳。
『井上靖全集』第二十三巻、1997(平成9)年6月、新潮社。


「天体の植民地」
中国行軍日記

「中国行軍日記」1937(昭和12)年10月13日(水)より抜粋

「五時、新村着、ロ営。銃の発條を失ひおどろく。病馬と共に遅れた溝口隊長を向ひに行つた本部の大鳥君が拾ふ。大助り。」
*発條・・・銃尾の発射などの装置、遊底のことか。

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