井上靖のことば

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2015.11.2更新


「別れ」

いつからか、また雪が降っている。
待ちに待った列車に乗り込もうとしたが、容易なことでは乗り込めなかった。
雪をかぶった無蓋貨車で、どの車輛にも、やたらに梱包が積み上げられてあり、何人かの応援でもない限り、そこに身を移すことはできなかった。
駅長はホームを駆け廻り、私を乗り込ませる車輛を物色し、自分も半ば、それに乗り込むようにして、私を引き上げたり、押し上げたりして、どうにか私を、車輛の一つに乗り込ませてくれた。
列車が動き出してから、私は世話になった駅長の名前も、所属している部隊名も聞いていないことに気付いた。気付いた時は、もう遅かった。駅長は、長い、これほど長いとは思わなかった、長いホームに一人だけ立って、手を振っていた。
〝孤影〟とは、この時の、彼のために造られた詞であった。
私もホームに向って、手を振ったが、私が手を振るのが、駅長の眼に入ったか、どうか。
私は、私の八十年の生涯で、〝別れ〟なるものを一つ選ぶとすると、昭和十二年十一月の、この元氏駅に於ける、深夜の駅長との別れということになる。私はある時、ある所で、ある人と別れたのである。本当に別れと言える別れを、異国の小さい雪の駅で経験したのである。


1990(平成2)年4月、『鳩よ!』へ発表、井上靖83歳
詩集『星闌干』、1990(平成2)年10月、集英社(井上靖最後の詩集)



「天体の植民地」
中国行軍日記

中国行軍日記 1937(昭和12)年11月19日(金)より抜粋

「朝起きると白くなつてゐる。初雪だ。(略)
山田軍医、看ゴ長が入院した方がよかろうと立ち所に入院決定。(略)
駅でみなと別れる。ひどいぬかるみ路―これが何十里つゞくと思ふと、
明日からの行軍の辛さが思ひやられてみんなにすまない気になる。(略)
七時上車。戦傷患者をも含んだ前線からの歩兵部隊の中にはさまつてのる。無蓋貨車。」

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