井上靖のことば

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2015.12.7更新


「落日」

二十歳代のことだが、ひとりだけ、部隊から離れ、部隊を追いかけて、薄暮の迫りつつある河北省を南下して行ったことがある。

落日が、石家荘南方の大平原を、赤く染めていた。立ち停まると、田圃で働いている男女が集まって来、一緒になって、次々に現われてくる渡り鳥の群れを仰いだり、落日に眼を当てたり、時には銃声に耳を傾けたりした。

いま思うに、私の全生涯に於て、最も無防備な、併し、最も平安な何時間かであった。戦線に於ける孤児として、天が私を、あたたかく遇し、嘉(よみ)してくれていたのだ。

1990(平成2)年6月、『すばる』へ発表、井上靖83歳
詩集『星闌干』、1990(平成2)年10月、集英社(井上靖最後の詩集)


「中国行軍日記」1937(昭和12)年10月13日(水)より抜粋
「五時、新村着、ロ営。銃の発條を失ひおどろく。病馬と共に遅れた溝口隊長を向ひに行つた本部の大鳥君が拾ふ。大助り。」
*発條・・・銃尾の発射などの装置、遊底のことか。




11月、中国・保定郊外の麦畑にて、次女・黒田佳子さんによる「落日」朗読。
井上が行軍した中国の地について、2016年刊行予定「中国行軍日記」へ掲載します。

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