井上靖のことば

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2018.6.11更新


「あじさい」



雑木の青葉がむんむんした幾つかのエネルギーの固まり
になって、幾段にも重なり合っている。そしてその一番
下から、薄紫のあじさいの花が顔を覗かせている。この
構図を支え、安定させるために、雨は降るべくして降っ
いるのである。                  

雨期にはいってから急に野性を取り戻した白い紀州犬が、
時折何ものをも信じない孤独な眼をして、あじさいの花
の傍にうずくまる。すると、その度に雨は烈しくなる。
雨勢は盛んなるべくして盛んになっているのである。

時に雨脚が消えて、薄ら陽がただようことがある。私の
思いがあじさいの根もとにぴったりと寄り添った時であ
る。人間の精神をごく稀に訪れる平安さも所詮は多少の
不幸と無関係ではなさそうだ、--たとえて言えばそん
な私の思いが。                  






昭和45年8月1日「風景」8月号に発表。原題「雨期」 井上靖63歳。
『井上靖全集 第1巻』1995年4月、新潮社へ収録。





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